「まんが日本の歴史」の平賀源内が割とヤバいぜ
最近「まんがで分かる歴史」的な本をアホみたいに読んでる。今読んでるのは小学館が出してる『少年少女日本の歴史シリーズ』ってやつで、その14巻、「蘭学と国学」って章が面白かった。
章題どおり、江戸時代半ばの学者がメインで取り上げられてる。杉田玄白とか本居宣長とか。
で、その中のひとりが平賀源内で、そんで、いろいろやってる。オランダ語を勉強したり植物について調べたり芸術家の仲介めいたことをしたり自分も浄瑠璃の台本を書いたり絵を描いたり「エレキテル」って機械を作ったり、万能って感じで立ちまわってる。
だけど最後、こうなる。
この手の本にしては結構尖った、いまどきのプロットだな、と思ってちょっとビビった。――でもその展開が別に取って付けたって感じじゃなくて、むしろちゃんとマッチしてる。日本史の「単語」としての平賀源内、その名前ぐらいはみんな知ってるけど、でも具体的に何かをやった、成し遂げたってイメージはまったくない。「なんか発明家的なヤツで、なんかエレキテルがどうとかあれこれやってて、けど結局モノにならなかった、今の俺たちに繋がらないヤツだろ?」みたいな、そういう漠とした印象をピタリとこの漫画は表わしてる。未来に繋がるモノを残せなかったくせに歴史上の人物として名前だけは残っちまった、「登録」されちまった、みたいな、その切なさ、みたいな。そうやって「登録」されたからこそこういう学習まんがなんかにも登場させられて、杉田玄白とかの引き立て役に使われて、あぁ、まぁ、なかなかの無間地獄ですな、みたいな。
将来的に歴史の「再評価」とか「再解釈」がされて、実は源内くんのエレキテルは現代の電気文明、エネルギーマシンの先駆者、再生可能エネルギーの起源だったみたいなことになって、一躍源内くんは「偉人」として将来の「まんが日本の歴史」とかで主役を務めるような身分になって、いやでも、まぁそれはそれでだるいだろうよって気がしなくもない。ほんと疲れたよ、これぐらいにしようぜ、みたいな。
P.S.
個人的なお気に入りは集英社版『世界の歴史』の14巻、ヘンリー=フォードの章。奥さんとのやり取りがラブコメ感あってかわいい。萌える。推せる…。
大澤真幸のブルース
大澤真幸って社会学者がいて、どの本だったか忘れたけど、原発と世代間倫理みたいな話の中で、「お前は未来のお前について考えて、未来のお前のために何かをやったりするよな? 未来の自分が大学に受かるように今頑張って勉強するとか、老いぼれの自分が野垂れ死なないように今年金をちゃんと積み立てとくとか、そういうふうに未来の自分のために行動ができるよな? ――でも未来のお前はお前じゃないよな? 未来のお前は今「この」お前じゃない、つまり他人だよな? ってことは今「この」お前は未来のお前っていう他人を思いやれるヤツだってことで、つまり、ってことはお前は、未来のお前以外の他人のためにも今何かができるヤツなんだよ。だって未来のお前も未来のお前以外も今「この」お前にとっちゃ同じ他人なんだから。未来のお前を思いやれるお前が未来のお前以外の誰かを思いやれないわけないぜ」、的な感じのことを言ってて、うわシャレた言い回しだな、と思った。俺が女なら確実に惚れてると思う。
この論文集の中で誰かが「今生きてる俺たちだけじゃなくてとっくに死んだヤツら、キリストより昔のヤツらだって全員いつか救われなきゃいけない。そいつら大昔の野郎どもも丸ごと救えないならそんなモノは救済じゃねぇ、意味がないぜ!」的なことを言ってて、「お、おう」みたいな。大きく出やがった、みたいな。
それはそれとして、けどちょっと思ったのは、今の自分は過去の自分にアドバイスできるとして、それをやるか? みたいな。17歳とかの自分に「お前ちゃんと勉強しないと将来こんなんだぜ」みたいなことを言って、17歳の「その」自分をましな方向に誘導しようって思うのか? つまり要するに、「この」自分は17歳の「その」自分が成功することを祝ってやれるのか? それはものすごい妬ましくて無理なんじゃねぇの、みたいな。過去の「その」お前も「この」俺みたいになれよ、俺と同じくしょぼい人生を行けよ、こっちに来いよ、みたいに思って、つまり過去の自分っていう「他人」を全然思いやれないんじゃねぇの、みたいな。というかむしろ自分以外の自分の成功ほど許せないモノはないんじゃねぇの、みたいな。どうか全部の俺が、過去も未来もどの平行世界の俺もちんけな俺であってくれ、とかなんとか。
ラノベの新人賞の下読みバイトをやったときの話
昔書いたラノベ。本文とは関係なし。
何年か前、23歳のとき、ちょっと縁があってライトノベルの新人賞の下読みをやった。ふと思い出して、そのときのことをちょっと書いてみた。
条件
・選考段階…1次選考
・担当作品数…10作品
・バイト代…2万円
・期限…1カ月ぐらい
だいたいこんな条件だった。時給換算だと別段割のいいバイトってわけじゃなかった。まぁその頃はもう大学を出て働いてたから別に金はどうでも良くて、単純にちょっと面白そうと思って引き受けただけだった。
段ボールでドサッ
「やるよ」と答えて数日後、段ボールに原稿10本が詰められてドサッと家に送られてきた。編集者からは「10本のうち2、3作品を2次選考に推薦しろ」って指示だった。
とりあえず読み始めた。
全部読んだ。
インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show.Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)
- 作者:米倉あきら
- 発売日: 2015/04/01
- メディア: Kindle版
この世で1番すごいラノベ。本文とは関係なし。
評価シート記入
メールで「評価シート」のファイルが送られてきた。「これに記入しやがれ」的な。
一般文芸の新人賞だとあんま無いと思うけど、ラノベの新人賞は大抵どこも「評価シート」ってモノがあって、選考終了後、各応募者に送られてくる。要はその作品のイイとこ、悪いとこ、各評価基準で10点中何点、ABC評価でどれ、みたいなのがざっと書かれてて、今後の参考にしてください、みたいな。希望者には全員に評価シートを送るって出版社、レーベルもあるし、1次選考通過者、2次選考通過者だけに送る、頼まれてないけど送る、みたいなトコもある。
その評価シートを書いた。評価基準が5個あって、各10点満点の配分で、つまり計50点の中で点数をつけるって流れだった。それプラス、自由記入欄に数百字でイイとこ、改善点、みたいなのを書いた。
正直点数づけは適当だった。点数自体に深い意味は無くて、イイと思った作品から順番に高得点をつけた、って感じで、要は点数自体は後付けだった。まぁそれは多分誰でも大抵そんなもんだと思う。5、6個の「基準」なんてもんに当てはめて小説を読む、評価するなんて普通に考えて無理で、無理と分かっててそれでも一応客観的っぽい感じを出すためにそういう「基準」を紙の上で設けてるだけであって、だから評価シートの中で多少当てになるのは自由記述欄、そのコメントぐらいじゃねぇかな、と思う。
あぁでも、下読みの自分が書いたその評価シートが直接応募者に送られたかは分からない。2次選考以降に進んだ作品にはそこの各段階でも評価シートが書かれてただろうし、1次で落選したヒトにも、僕が書いた評価シートをそのまま、じゃなくて編集者とかが「手直し」したうえで送ってたのかもしれない。分からん。
選び切れねぇ
10本読んで、「2次選考に上げてもいい」と思うのは6本ぐらいあった。そっから2つか3つに絞ろうとして、結局それができなくて4本を編集者に推薦した。「多いわ」って返信が来て、まぁでもそれで終わりだった。絞り直せとは言われなかった。
後日1次選考通過作の発表、リストを見ると僕が推薦しなかった作品もあって、だから単純に下読みの推薦とか評価をそのまま真に受けてるわけじゃないらしかった。そっから2次選考までの間にもう1工程、何かがあるらしかった。まぁ当然そのへんは各新人賞によって違うとは思うけど。いや単純に、ド素人の僕が下読みだからそういう「ワンクッション」をそのときは編集者の裁量で挟んだのかもしれないけど。
死ぬほど良かった1本
絶対新人賞獲ってほしい、これマジで出版してほしいわと思ったのは1本だった。評価シートに満点近い点をつけて編集者に送り返した。
その作品は2次選考で落ちてた。かなり悔しかった。おいマジかよ、みたいな。
ラノベっぽくはない、けど、んなこと言えばどのジャンルの賞に送ったって「らしくない」小説で、でも本当にイイと思った。若い女と男、恋人どうしのふたりの話で、女がお弁当屋さんでお惣菜買ったり男がバンドやっててプロ目指してレコード会社にデモテープ送って軽い詐欺にあったり、とかそういうしょぼい日常が描かれてて、でもどうもその男は実在しない、女が片想いの弁当屋さんのあんちゃんをモデルにこしらえた妄想らしくて、けどその一方でむしろ女の方が幻だった的な感じも出してて、だけど、ならその妄想を、夢を見てるのは誰なんだ、ってかそもそもこれを喋ってる語り手は誰なんだ、その女じゃないのか、その男でもないのか、的なこともイマイチ判然としなくて、ねじ曲がって奇形化した叙述トリックみたいな感じになってて、そこになんか不治の病的なモノ、「難病もの」的な要素も絡んできて、ぶっちゃけよく分かんねぇけど、でも本当にイイ、感動する小説だと思った。あれがラノベとして世の中に出たら本当に痛快だと思った。その新人賞のレーベルはたまに「変なラノベ」を出す、みたいな感じのトコだったけど、でもそういう「変なラノベ」ってカテゴリーとも違う、なんというか、「誰が読むのか分からない小説」って感じで、だからそういう意味じゃラノベとしては致命的で、だから2次選考であっさり落とされたのもまぁそりゃそうかって感じで、だけど、「誰が読むのか分からない」からこそ、この世の全員に読ませたい、そういう小説だった。
今でもたまにその小説とその作者の名前で検索をして、そんでヒットしなくて、でもどっかで書いてりゃいいな、とか思う。あのヒトの書いたモノをもっかい読みたい。もっと読みたい。
昔書いたラノベ、の挿絵。ryugaさんってイラストレーターが描いてくれた。
基本どれも良かった
その1本は別格として、けどそれ以外も基本悪くなかった。「読んでて結構面白い」or「尖って刺さるトコが作中にひとつかふたつはある」みたいな感じで、だからそういう意味じゃ割のイイ、退屈しないバイトだった。
で、僕が読んで1次選考を通過した作品は全部2次で落ちてた。上記の最高の1本以外は、まぁ落ちてもそんなに「マジかよ」って感じではなかったけど、でもやっぱちょっと悔しい気持ちはした。やっぱ1回でも読むと、そういうふうに「関わり」を持つと情が湧くもんなんだな、と思った。
食いぶち
僕の場合は単発、ある意味偶然で1回その下読みをやっただけだけど、何回もそういう下読みバイトをするヒトも中にはいるらしい。大学の頃、文芸評論家の教授が言ってて、純文学の新人賞の下読みとかは、まだ芽が出てなくて食えない作家や批評家のある種の「セーフティーネット」、つまり出版社がそういう売れないモノ書きを養うために下読みの仕事をあてがってる、って面もある、的なことを言ってて、だからその教授が言うには結構金額的にもそこそこ割りのいいバイト、ではあるらしい。文学の新人賞って制度にはそういう経済構造、つまり応募者だけじゃなく、若いモノ書きに対する当座の「メシの種」、出版社による「公共事業」って側面もある、とかなんとか、みたいな、いやそういう主旨の話じゃなかったかな。分からん。忘れた。
結論
あの小説、また読みてぇ。選考が終わって、原稿はまた段ボールに詰めて出版社に送り返したけど、あの小説、こっそりコピーしとけば良かった。違反だろうがなんだろうが手元に残しとけば良かった。なんであのときの自分はそうしなかったんだ? どうせあの小説は賞を獲る、デビューする、この先幾らでもあのヒトの小説を読める、なんて、高をくくってたのか? Fuck‼ やっちまってるわ。コンビニでコピーしなかった自分も。あれを落とした出版社も。
クレヨンしんちゃんを毎日観てるバカがオススメするクレしん映画ランキング ベスト5(第5位)
廃人のようにクレヨンしんちゃんを毎日観てる。そんな呆れた馬鹿による歴代、全28本のクレしん映画のうちのベスト5を紹介する。
ちょっと長いから記事を分けた。ここでは5位の作品を紹介します。
※言い訳
普通に考えてクレヨンしんちゃんは毎日観るモノじゃない。だからこの紹介、レビューはその意味で偏ってはいる、と思う。だけどその分、普通とはちょっと違う視点からクレヨンしんちゃんを紹介できてる、と思う。多分クレヨンしんちゃんの新しい魅力に気づける、その参考になると思う。というかなってくれたら幸いでございます。
5位 歌うケツだけ爆弾!(2007年)
あらすじ
シロのおしりに変なものがくっついた。なんとそれは、地球を丸ごとふき飛ばせるくらい強力なばくだん! 残された時間は少ない。しんちゃんは世界を救えるのか!?
見どころ・感動ポイント
シロ(ペット)に対するしんちゃん(子ども)とひろし&みさえ(親)の温度差。
世界が滅ぶような爆弾がシロのケツにくっついた。地球滅亡の危機を回避するため、ある組織がシロを「回収」し、爆発前に宇宙へロケットで放り出そうとする。つまりもちろん、シロは死ぬ。
組織から話を聞いたひろしとみさえはしんのすけを説得する。「シロを差し出そう」と。
しんのすけは逃げる。シロを連れて。
そんで、途中で力尽きる。そんで、シロは自ら「回収」されることを選ぶ。しんのすけのもとを離れる。
目を覚ましたしんのすけはシロを取り返しにいこうとする。そのしんのすけに、ひろしとみさえは乗っかる。「やっぱみんなでシロを助けに行こう」的な感じで。
このときの台詞がポイントだ。この作品の最大の。
みさえ「今、できることすべてをやり切るのが、私たちらしいと思う」
ひろし「このままシロを見放したら、俺たち家族までバラバラになってしまう、――だな、しんのすけ」
このふたりの言葉が何を意味するか。
それは、ひろしとみさえはシロを取り返したいわけじゃない、「シロを救う」ことが目的じゃないってことだ。それは自分たち家族の「らしさ」とか「絆」を守るための手段だということ、そのためにシロを救う、いや「シロを救おうとしている」ってことだ。――翻訳すれば、「シロを本当に取り返せたらまずいけど、シロを見殺しにしたってことにしないためにシロを取り返しに行くふりしますわ」ってことだ。
つまりそれは演技だ。本気で、あとさき考えずシロを取り返そうとしている子ども(しんのすけ)とは違う。大人、親であるひろしとみさえは家族(しんのすけ・ひまわり・ひろし・みさえ)の関係が壊れないために「ペット」を助けに行く。行くふりをする。迫真の演技をスタートさせる。
最後はもちろん、偶然が重なってシロは助かる。世界も滅びない。けどもし、爆弾がシロから外れないままだったら、最後の最後、間違いなくひろしとみさえはシロを「諦めた」と思う。つまりしんのすけをシロから引っ剥がして、シロだけを宇宙へ放り出したと思う。シロと一緒に地球が、家族全員が死ぬぐらいならシロを、「ペット」を殺しただろう。理性ある大人の当然の損得勘定として。
シロは「ペット」か「家族」か?
上のシーンは2014年に放送された「スマホでドキドキだぞ」という回のモノで、みさえの浮気を疑ったひろしが家族の崩壊をイメージしているシーンだ。ここではハッキリとシロが「家族」の一員として含まれている。
これは1997年上映の『暗黒タマタマ大追跡』の後半、悪の組織との最終決戦に向かう直前、新幹線の荷物棚に置き去りにされるシロのショットだ。ここではシロが「野原一家」としての扱いを受けていない。
――こんな感じで、90年代のクレヨンしんちゃんではシロが「野原一家」として描写されていない部分がかなり目立っていて、それが時代が進むにつれてシロが「家族化」するようになってくる。
TVシリーズ クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ イッキ見20!!! ご近所さんは変人ぞろい!? 第二のわが家・またずれ荘編 (<DVD>)
- 作者:臼井儀人
- 発売日: 2016/07/06
- メディア: DVD-ROM
あと、2001~2002年の一時期、家が爆発して野原一家はアパートに仮住まいしてたことがある。このときシロはお隣さんにずっと預かってもらっていた。
2021年の今、同じようなエピソードをやるなら、多分シロは一緒にアパートに連れて行くと思う。ひろしたちはちゃんと「ペット可」のアパートを探すと思う。そういったトコにも当時の、20年前30年前のクレヨンしんちゃんではシロの価値が低かった、家族として見なされていなかったことが結構表われたりしてる。
「家族」と「ペット」の狭間で揺れるシロ
『ケツだけ爆弾』はシロを「家族」として正面から扱った映画、ってふうに一応は言えると思う。ひとことでこの映画を説明しろってことになれば僕もそう表現すると思う。つまりクレヨンしんちゃんってコンテンツ全体の、その価値観の変化、シロの「家族化」を全面に出した作品なんだぜ、とかなんとか。それはそれで間違いじゃないとは思う。
けどもうちょい厳密に、しっかりと見れば、上記の言葉に表われているように、ひろしとみさえはシロのことをしんのすけやひまわりと同等に大切なモノ、理性で天秤にかけたりができない存在、とは思っていないことが分かる。
ひろしとみさえは演技をしている。救おうとするふりをしている。しんのすけとは違う。家族の心はひとつにはなっていない。そこにはシロへの想いの温度差がある。
だけど、だから切実じゃないってことにはならない。温度が違ってもひろしとみさえはガチだ。しんのすけとは見ているモノが、守りたいモノが違っていても、それでもひろしとみさえはマジだ。本気で演じている。シロを助けようとするふりをすることで、家族の絆(しんのすけ・ひまわり・ひろし・みさえ)を守ろうとしている。そのためにしんのすけと同等に、死に物狂いで立ち向かっている。一世一代の芝居を打ってる。
胸を打つのはこれだ。しんのすけ⇔ひろし・みさえの差異。だけど、それでも分かり合ったふりで、同じモノを見ているふりで駆け回る、そのズレが、演技が、それこそが死ぬほど感動的だ。
シロは無前提に家族ではない。ってかぶっちゃけ、親(大人)にとって、究極的にはシロは、ペットは「ペット」に過ぎない。
ひろしとみさえが単純には描かれていない。しんのすけとは同じじゃない。本当は団結なんかできてない。家族の気持ちはひとつじゃない。それを暗に、けどしっかりと描いているのが「ホームドラマ」として本当にすごい、素晴らしい作品だと思う。
ひまわりとシロの違い
別の記事で詳しく述べるけど、個人的にクレしん映画で2番目にイイと思ってる『オラと宇宙のプリンセス』――ひまわりを取り返しに行く映画を見ると、ひろし&みさえの、ひまわりとシロへの温度差が分かる。『オラと宇宙のプリンセス』ではひろしとみさえはもっと短絡的だ。演技じゃなくひまわりを取り戻そうとしてる。「今」ひまわりと一緒にいることが大事で、それを抜きにして未来や世界のことなんか考えられねぇ、的な感じのことを言って、「敵」に立ち向かってる。
つまり『オラと宇宙のプリンセス』では子ども(しんのすけ)と親(ひろし・みさえ)が団結してる。同じ目的を持って、心がひとつになってる。それはそれでとても感動的で、そしてそれゆえに、それを観てからこの『ケツだけ爆弾』を見ると、シロにはそういう「
P.S.
映画、延期になった。Fuck‼
殺人犯の精神鑑定書を読んだらヤバかった
ヒト殺しの精神鑑定書を読んでみた。個人的に3つの理由でヤバかった。
1.「取材」量がヤバい。
2.ヒト殺しの人生がヤバい。
3.ヒトを殺したときの心理がヤバい。
そんな感じだった。
普通に売ってます
裏ルートから鑑定書をゲットした、わけじゃない。普通に書籍として出版されたモノです。『宅間守精神鑑定書』。
宅間守。若い方だと知らないヒトもいるかもしれない。でも結構有名人だ。2001年に大阪の小学校で児童8人が殺された事件――通称「池田小事件」の犯人だ。そいつの精神鑑定書だ。僕の年代(1992年生まれ)、ぐらいから上のヒトは多分だいたい憶えてる。結構劇的な、センセーショナルな事件で、だからこの鑑定書が出版されてるのを知ったときは「おお、あの事件の!」って感じで、結構驚いて、テンション上がった。
附属池田小事件は、わが国では例のない小学校内における無差別大量殺傷事件です。(…)社会に激しい衝撃を与えた附属池田小事件を起こした宅間守の精神鑑定書をきちんとした形で残しておく必要があると考えました。
まえがきにそんな感じで、詳しく書かれてる。一般書として出版することにした理由が。流れが。
――で、上述の3つのヤバさからこの鑑定書を紹介したい。
1.「取材」量がヤバい。
精神鑑定、と聞いてどういうイメージを持つだろうか? というかどういうことをしていると思うだろうか?
この本を読むまでは、僕は漠然と「テスト」のようなモノだけを想像してた。絵を見せてこれがどう見えるかとか「こういうときあなたはどうしますか」みたいな質問を延々されるとか、そういうコトをやってくのが精神鑑定で、つまりそういう「テスト」の結果が単にずらっと書かれてるのが精神鑑定書だと思っていた。
けど違った。
読んで思ったのは、むしろ「伝記」だなってことだった。本書400ページの多くが宅間守の人生の「紹介」に割かれてる。宅間本人はもちろん、宅間の関係者にも聞き込みをして、宅間の生い立ちから逮捕までを丁寧に記録している。ここまで調べたのか、って感じで、単純にそれに感心する。宅間本人もかなり「取材」に協力的で、ノリノリ(?)で事件のこと、人生の細部、その瞬間の状況とか心境とかを鑑定医に打ち明けていて、まぁ当然っちゃ当然かもしれないけど、医者ってのは訊き上手、聞き上手なんだなと思った。
もちろん「科学的」な鑑定もちゃんとしている。「資料」として脳波の測定値とか心理テストの結果が載せられている。でも一般人が読むぶんにはそういうのはぶっちゃけおまけで、この本の面白さは宅間の人生とかを丹念に追ってるところにある。単純に読み物として充分面白い。
カバー裏はこんな感じ。
2.ヒト殺しの人生がヤバい。
宅間守の個人史を辿ると、幼少期から始まる逸脱行為、思春期から始まる精神病を疑わせる精神症状、青年期から明らかになる粗暴で暴力的な犯罪行為と強姦などの性犯罪行為、詐欺あるいは恐喝まがいの財産犯的な犯罪行為、そして頻回の転職、結婚と離婚の繰り返し、断続的な精神科治療歴などが認められる。
まさにその通りで、こいつメチャクチャやってんなぁと、読んでて思う。
中学校の同級生であった〇〇子は、「高校一年の頃……何度か電話……やりとりの中で、礼儀正しい。きっちりした内容の受け答えする。他の男性よりしっかりしている。噂とはちょっと違うな。と思う様になった……高校二年……単車でドライブ……堤防で……布をいきなり私の口に当て……その時の宅間の目つきは鋭いものがあり、抵抗したらどんなひどい目に遭うかもしれないと咄嗟に考え、後は宅間のなすがままに強姦されてしまった」と述べている〈調書〉。
T病院で飛び降りる前から何回か肉体関係のあった女性がいた。大怪我した後で「もう一回呼び出した」が、「ホテル行って、ちょっと抵抗され」た。俺は胸椎やあごの骨折、歯は抜けたのにと「腹が立っ」た。それで、これが圧迫骨折やと「女の背骨を思いっきりガンガンと殴っ」た。「ジュースのビンの底で自分で歯を折れ」と命令し、「女」は「真剣にガンガンガンと」自分の歯を殴っていた(笑う)。そしてホテルの外に「置き去りにして帰っ」た。
出所後間もなくのころ、「ホテトル」嬢に「家から用意してきた針」を見せ「B型肝炎のウィルスや、逃げようとしたら刺すぞ、とか言うて」、「長い監禁したらヤクザが来る」ので「別のホテルに」連れて行った。そして「コンタクトレンズを入れてるホテトル嬢の」「目をつぶしたろと思って」、「親指で体重かけながらセックス」すると、「目がみるみる間に、白目が真っ赤になって出血し」た(笑う)。
だいたいこんな感じでいろいろやってる。ワルやなぁ、って感じで、正直胸くそ悪くなる部分もある。マジかよ、みたいな。「関わりたくないヤツ」のまさにお手本、教科書みたいな野郎だな、という印象。
だけどその一方、というかときどき、妙に抒情的っつーか詩的というか、イイ表現だな、と思うモノもある。
「こんな独房におっても、交通事故で六十代、七十代が死んだ聞いてもあまり嬉しくないけど、三十代、二十代の奴が交通事故で死んだとか聞いたら、無性に嬉しい」。「外おってもシャットアウトになる奴、なんぼでもおるやないかと」「ハイになる」。
「自分がもしトラックの運転手やらサラリーマンとかやったら、その場でブスブス刺すか、半殺しのボコボコやってるんです。だから最後の一線いうか、仕事がかわいかったからね。役所勤めやったから。失いたくない気持ちがあって、それがものすごくブレーキになっ」ていたという。
「何もかもが逃れたかったんです。今の苦しさから」
テレビの漫才や生中継を見ると、「こいつ、もしさっきのこと(タレントの言葉や動作のこと)引っかかりながらやってたら苦しいやろうな、とか、そういうふうに見えてくる」
なんとなく、ところどころで気の利いた言い回しというか、印象に残る言葉とかが散らばってる。なるべく「原文」どおりに、宅間の生の言い回しを鑑定者の側がちゃんと残してるってのも大きいんだろうけど、結構グッと来る。
3.ヒトを殺したときの心理がヤバい。
事件そのものについては「本件犯行」という章で綴られている。言わばメインの箇所で、ページ数は30ページぐらいで短いけど、一番感動的なトコだ。
事件についての質問に対し宅間が答える。一問一答的なリズムで、事件前後、そして最中のことが、その心境が淡々と語られていく。
「ブスブス事件」。宅間はそう表現する。池田小事件、自分が8人の子どもを刺し殺したことを。
(池田小学校に着く寸前に思ったのは?)
鑑定医がそう問う。
自らの、過去の、21歳の頃の、「飛び降り」のことを引き合いに出して、宅間は答える。
「よく考えると僕死んどったんじゃないか。たまたま助かっただけやないか、と思ったのを覚えてるんです。飛び降りたときに。あのとき死んどったんや。おまけやないか、と」
この鑑定書の中で、個人的に一番好きな文章だ。自分の人生を「おまけ」って語彙で表現するのは、率直にうまいというかセンスがあるというか脱帽というか、ってかストレートに感動した。ぶっちゃけ泣けた。
「もう終わりやな、と」
(そのときに感じた気持ち? 「もう終わりやな」と感じたの?)
「感じた。ああ、ちょっと。あの結構苦労したんですよ。包丁ね。そのとき考えたのがね、包丁を出すとき、底が破れたらあかんから、刃を上向きに二本とも入れとったんですよ。それで出すのに結構苦労してね。包丁二本とも取り出してやったら、子供が逃げ出したらあかんから。袋を、逃げんようにゴソゴソゴソゴソ、どっちが買うた方や買うた方や。それで何秒間かロスしてるんですよ。それを気にしたことやから、またひっかかったんですよ。ロスしてる自分を。ほんで、これは後で調書で言わなあかんな、と思って」
(ロスしたなあというイメージと、調書に喋らんといかんなあということをそのときに思ったか?)
「いや、それで何か悔しかったんです。何でこんなゴタゴタもたつかなあかんねん。これからやろうとしてるのにロスしてる自分がね」
「はっきり覚えてないけど。ただ不思議と音だけは聞こえてないんです。子どものピーピーピーピーいう声があったと思うんやけど、全然音が遮断されてもうて」
「自分の使命いうか、次々いう感じ。別にとどめさそうが、そんなの関係ない。重症でもいいわけです。百パーセント死なんでも。とにかく一人でもダメージいうか」
「達成感いうか、もうかなりやって疲れたなという感じ」
「疲れたな。終わったな、いう」
「社会とさらばやなあ、いう」
「いや、考えがあまり浮かんでけえへん。もうしんどかったから」
そして宅間は捕まる。そして2003年8月28日、死刑判決を受ける。つまり精神鑑定の結果によって減刑はされなかった。
2004年9月14日、死刑が執行された。
――正直「本件犯行」の章はもっと、全部引用したいぐらいだ。かなりイイ。ぜひこの30ページだけでも読んでみてほしい。
いや、すんません、もう一個、
「本件犯行」以外にもう一カ所、興味深くて、かなり感動的で、絶対読んでほしいトコがある。あとがきだ。鑑定人の。
もちろん、私たちの精神鑑定書は宅間守の全体像を捉えているとはいえないでしょう。宅間守は、弁護人には私たちとは違った顔を見せていたかもしれません。(……)一方で、死刑直前には獄中結婚した妻への感謝の言葉を残したとも伝えられています。
私は鑑定人として、診断が難しい事例においても、仮に十人の精神科医が鑑定したとして、うち七、八人以上が納得する根拠を示し診断すべきと考えています。仮説や主観的な思い込みは可能な限り排除すべきです。しかし宅間守については、より正確に人格障害の中核部分を言い表すためにあえて、古典的であり、かつ人格への非難・批判を内包するような「情性欠乏者」という診断名を使いました。
一方、精神科の臨床医としての私は、宅間守が抱いていた視線や音などへの過敏さはおそらくヒリヒリするほどの嫌な感覚を伴っていたのではないだろうか、などと宅間守の内的世界に目を向けようとします。
附属池田小事件の裁判での大きな争点が責任能力の有無でした。私はたとえ何人もの精神科医が何度も精神鑑定をしたとしても、私たちと同様に、宅間守には責任能力があるという結論になるだろうと確信しています。とはいえ、この精神鑑定書が死刑判決を後押ししたことは間違いないでしょう。そのことも含めて私は、宅間守の魂が安らかに眠っていることを祈っています。
泣かせるあとがき、最後の言葉だと思う。職業倫理とかヒトの死とかへの諸々の感情が入り混じった、それをうまく表現してるあとがきだと思う。
イイ本だと思います。シンプルに。
本文には関係ない、けどちまちま読んでると結構面白い本。
P.S.
書いてて思い出したけど、なんで個人的にこの事件が印象に残ってるかって理由のひとつに、小学校の頃の社会科見学があった。市立美術館だか博物館に行って、そのときの職員、学芸員か誰かが仏教の地獄絵図、みたいなのを俺たちに見せながら、「こないだのあの池田小事件の犯人とかは死んだらここに堕ちるんだよ」みたいな説明をしてて、そんなん言っていいんか? と子供ながらに思った、ってのがあって、まぁそんな感じでした。
八王子の引きこもり野郎
3月に八王子に引っ越してきた。23区、中野から越してきた。
越して来てからの2カ月、基本的には引きこもってる。小説書いたりTwitterとか始めてみたり、金もないんで就活したり、また青森の地元で公務員にでもなろうかと思って試験の参考書をぱらぱらめくってみたり、けどいまいちどれも腰が据わってねぇというか、引きこもってるくせに何かとっ散らかってる感じというか、どうなんだこれ、みたいな、まぁ、でもそんなもんだよな、みたいな。
でも八王子は結構気に入ってる。景色がイイ。殺風景な感じが自分の地元にそっくりだ。駅前はごちゃごちゃしてるけど、橋をひとつ渡るとそっからは本当に寂れた地方都市というか、しょぼくれた景色って感じで、安心する。「あーこれこれ」、みたいな。もっと早く引っ越してくれば良かった。
だるい景色が並んでる。
なるべく橋の向こう、駅前に行かないようになってきてる。橋のこっち側で生活を完結させるようになってきてる。
とりあえず健康ではある。だるかったりそうでもなかったり、テンションが若干上がったり若干下がったり、でもそんなモノは実質は無いも同然というか、自分以外にはどうでもいいことって感じで、で、なら自分にとってもどうでもいいわ、みたいな。