クレヨンしんちゃんを毎日観てるバカがオススメするクレしん映画ランキング ベスト5(第5位)
廃人のようにクレヨンしんちゃんを毎日観てる。そんな呆れた馬鹿による歴代、全28本のクレしん映画のうちのベスト5を紹介する。
ちょっと長いから記事を分けた。ここでは5位の作品を紹介します。
※言い訳
普通に考えてクレヨンしんちゃんは毎日観るモノじゃない。だからこの紹介、レビューはその意味で偏ってはいる、と思う。だけどその分、普通とはちょっと違う視点からクレヨンしんちゃんを紹介できてる、と思う。多分クレヨンしんちゃんの新しい魅力に気づける、その参考になると思う。というかなってくれたら幸いでございます。
5位 歌うケツだけ爆弾!(2007年)
あらすじ
シロのおしりに変なものがくっついた。なんとそれは、地球を丸ごとふき飛ばせるくらい強力なばくだん! 残された時間は少ない。しんちゃんは世界を救えるのか!?
見どころ・感動ポイント
シロ(ペット)に対するしんちゃん(子ども)とひろし&みさえ(親)の温度差。
世界が滅ぶような爆弾がシロのケツにくっついた。地球滅亡の危機を回避するため、ある組織がシロを「回収」し、爆発前に宇宙へロケットで放り出そうとする。つまりもちろん、シロは死ぬ。
組織から話を聞いたひろしとみさえはしんのすけを説得する。「シロを差し出そう」と。
しんのすけは逃げる。シロを連れて。
そんで、途中で力尽きる。そんで、シロは自ら「回収」されることを選ぶ。しんのすけのもとを離れる。
目を覚ましたしんのすけはシロを取り返しにいこうとする。そのしんのすけに、ひろしとみさえは乗っかる。「やっぱみんなでシロを助けに行こう」的な感じで。
このときの台詞がポイントだ。この作品の最大の。
みさえ「今、できることすべてをやり切るのが、私たちらしいと思う」
ひろし「このままシロを見放したら、俺たち家族までバラバラになってしまう、――だな、しんのすけ」
このふたりの言葉が何を意味するか。
それは、ひろしとみさえはシロを取り返したいわけじゃない、「シロを救う」ことが目的じゃないってことだ。それは自分たち家族の「らしさ」とか「絆」を守るための手段だということ、そのためにシロを救う、いや「シロを救おうとしている」ってことだ。――翻訳すれば、「シロを本当に取り返せたらまずいけど、シロを見殺しにしたってことにしないためにシロを取り返しに行くふりしますわ」ってことだ。
つまりそれは演技だ。本気で、あとさき考えずシロを取り返そうとしている子ども(しんのすけ)とは違う。大人、親であるひろしとみさえは家族(しんのすけ・ひまわり・ひろし・みさえ)の関係が壊れないために「ペット」を助けに行く。行くふりをする。迫真の演技をスタートさせる。
最後はもちろん、偶然が重なってシロは助かる。世界も滅びない。けどもし、爆弾がシロから外れないままだったら、最後の最後、間違いなくひろしとみさえはシロを「諦めた」と思う。つまりしんのすけをシロから引っ剥がして、シロだけを宇宙へ放り出したと思う。シロと一緒に地球が、家族全員が死ぬぐらいならシロを、「ペット」を殺しただろう。理性ある大人の当然の損得勘定として。
シロは「ペット」か「家族」か?
上のシーンは2014年に放送された「スマホでドキドキだぞ」という回のモノで、みさえの浮気を疑ったひろしが家族の崩壊をイメージしているシーンだ。ここではハッキリとシロが「家族」の一員として含まれている。
これは1997年上映の『暗黒タマタマ大追跡』の後半、悪の組織との最終決戦に向かう直前、新幹線の荷物棚に置き去りにされるシロのショットだ。ここではシロが「野原一家」としての扱いを受けていない。
――こんな感じで、90年代のクレヨンしんちゃんではシロが「野原一家」として描写されていない部分がかなり目立っていて、それが時代が進むにつれてシロが「家族化」するようになってくる。
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あと、2001~2002年の一時期、家が爆発して野原一家はアパートに仮住まいしてたことがある。このときシロはお隣さんにずっと預かってもらっていた。
2021年の今、同じようなエピソードをやるなら、多分シロは一緒にアパートに連れて行くと思う。ひろしたちはちゃんと「ペット可」のアパートを探すと思う。そういったトコにも当時の、20年前30年前のクレヨンしんちゃんではシロの価値が低かった、家族として見なされていなかったことが結構表われたりしてる。
「家族」と「ペット」の狭間で揺れるシロ
『ケツだけ爆弾』はシロを「家族」として正面から扱った映画、ってふうに一応は言えると思う。ひとことでこの映画を説明しろってことになれば僕もそう表現すると思う。つまりクレヨンしんちゃんってコンテンツ全体の、その価値観の変化、シロの「家族化」を全面に出した作品なんだぜ、とかなんとか。それはそれで間違いじゃないとは思う。
けどもうちょい厳密に、しっかりと見れば、上記の言葉に表われているように、ひろしとみさえはシロのことをしんのすけやひまわりと同等に大切なモノ、理性で天秤にかけたりができない存在、とは思っていないことが分かる。
ひろしとみさえは演技をしている。救おうとするふりをしている。しんのすけとは違う。家族の心はひとつにはなっていない。そこにはシロへの想いの温度差がある。
だけど、だから切実じゃないってことにはならない。温度が違ってもひろしとみさえはガチだ。しんのすけとは見ているモノが、守りたいモノが違っていても、それでもひろしとみさえはマジだ。本気で演じている。シロを助けようとするふりをすることで、家族の絆(しんのすけ・ひまわり・ひろし・みさえ)を守ろうとしている。そのためにしんのすけと同等に、死に物狂いで立ち向かっている。一世一代の芝居を打ってる。
胸を打つのはこれだ。しんのすけ⇔ひろし・みさえの差異。だけど、それでも分かり合ったふりで、同じモノを見ているふりで駆け回る、そのズレが、演技が、それこそが死ぬほど感動的だ。
シロは無前提に家族ではない。ってかぶっちゃけ、親(大人)にとって、究極的にはシロは、ペットは「ペット」に過ぎない。
ひろしとみさえが単純には描かれていない。しんのすけとは同じじゃない。本当は団結なんかできてない。家族の気持ちはひとつじゃない。それを暗に、けどしっかりと描いているのが「ホームドラマ」として本当にすごい、素晴らしい作品だと思う。
ひまわりとシロの違い
別の記事で詳しく述べるけど、個人的にクレしん映画で2番目にイイと思ってる『オラと宇宙のプリンセス』――ひまわりを取り返しに行く映画を見ると、ひろし&みさえの、ひまわりとシロへの温度差が分かる。『オラと宇宙のプリンセス』ではひろしとみさえはもっと短絡的だ。演技じゃなくひまわりを取り戻そうとしてる。「今」ひまわりと一緒にいることが大事で、それを抜きにして未来や世界のことなんか考えられねぇ、的な感じのことを言って、「敵」に立ち向かってる。
つまり『オラと宇宙のプリンセス』では子ども(しんのすけ)と親(ひろし・みさえ)が団結してる。同じ目的を持って、心がひとつになってる。それはそれでとても感動的で、そしてそれゆえに、それを観てからこの『ケツだけ爆弾』を見ると、シロにはそういう「
P.S.
映画、延期になった。Fuck‼