サイン盗みって監督の指示じゃなくて選手が自主的にやった方がいいんじゃねぇの、みたいな

 

存在論的サイン盗み

  ここ2週間ぐらい、在宅のバイト(ひたすらコピペコピペコピペ)しながらずっと高校野球中継を観てる。スポーツブルってサイトで全国の地区予選をだらだらザッピングしながらぼーっと聴いてる。便利な時代ですな。

 

vk.sportsbull.jp

 

 で、結構よく見かけるのが「サイン盗み」のシーンだ。審判がランナーに「変な動きすんな」って注意してる場面だ。それなりに1日中観てるとそれなりに結構あるんだなぁって感じで、ド素人としては、へぇ、みたいな。これが噂の、的な。

 

 要するに塁に出たランナーとかコーチャーとかが打者に相手捕手のサインを伝達するやつだ。次スライダーだぜ、インハイにツーシームくるぜ、的な感じで。ルールでは禁止ってことになってて、でも結構みんなやってるぜ、ってことにもなってて、高校野球のひとつの悩みの種、みたいな。いやメジャーでも問題になってるし、少し前にプロ野球でも話題になってた。阪神がやってんじゃねぇの的な感じで軽く揉めてた。

 

 なんつーか、個人的には結構好きな話題だ。サイン盗みの話は。特に高校野球って領域で。うまく言えないけど「深い(キリッ」、みたいな。いやなんつーか、ある意味哲学的、みたいな。掘ってくと結構面白いんじゃねぇのこれ、いやサイン盗みそれ自体が、ってよりは、そっからたどっていろいろあれこれ、みたいな。

 


 こんな記事がある。 

 

number.bunshun.jp

 

 この記事で面白いのは、必ずしも監督とかコーチ、指導者がサイン盗みをやらせてるわけじゃないってことだ。つまり選手たちが自主的にやってる、そういうチームも割とあるらしい、ってことだ。

 

「僕たちは選手だけのミーティングをやって、伝え方を決めていました。多くの学校がやっていたので、対戦チームを観察する技術も身につきました。たとえば試合のときに下級生が外野のファウルゾーンでボールボーイをやるじゃないですか? ○○高校はそこからサインを盗んで、打者に伝えていました。右打者なら一塁側のボールボーイ、左打者なら三塁側ですね」

 

「監督や部長からは『おまえたちはそんな野球をやるな』って教えられていました。でも選手たちでやりました。それを監督が知っていたかどうかはわかりませんが。理由は勝ちたかったから。そこに尽きますね」

 

 監督やコーチ、「オトナ」がやらせてるわけじゃない、むしろやるなって言ってんのに選手たちで勝手にやる、――つまり球児どもは指導者にあんま服従してなくて、俺らド素人、部外者のイメージより専制じゃない、指導者の権力が行き届いてるわけじゃない、選手間の横の連帯に干渉できない、ってことなんだな、高校野球って意外とそういうもんなんだな、ってのがこれを読んだ最初の印象だった。

 

 で、しばらくして思ったのは、でもそれは指導者の本心じゃないかもな、ってことだ。つまりダチョウ倶楽部的な、「押すな」は「押せ」の合図だろ的な。「監督の俺はお前らにズルしろとは言わんけど、というかズルするなって言うけど、でもまぁ、分かるっしょ」みたいな。

 

 というか、いや、まぁ、思うに、サイン盗みって指導者の指示じゃなく選手たちが自主的にやるのが「最良」だよな、ってことだ。特に高校野球においては。

 

 

アンチノミー

 高校野球が、学生スポーツが「教育の一環」だって信じるかどうか、そうあるべきかどうかはともかく、けど現実として、16、17歳の子ども、親のすねかじってるガキどもにアラサーとかアラフォーとか初老とかのイイ歳こいたオトナが毎日毎日密に接するなら、そこにはどうしたって「上から目線」の要素は不可避で存在してしまう。主婦とか隠居老人相手のカルチャースクールみたいなもんとはやっぱ違う。ガキ相手に、「教育」を切り離して完全に技術的なことだけを教えるってのは普通に考えて無理で、ある種、なんつーか、ガキ相手の「指導」ってコミュニケーションの形式には絶対に「上から目線」、「啓蒙」が混じってしまう。「ヒトとして」どうこうみたいな道徳とか倫理を不可避で語ってしまう。――つまり、だから基本的に、指導者は高校球児より成熟した人間として在るべきことが求められてる、いや求められてるっつーか、それが「おさまりがイイ」。その方がコミュニケーションが、日々の指導がうまくいく。なんつーか、その「カタチ」に当てはめることが大事、みたいな。選手目線で言えば、「監督、あんたは嘘でもそういう体裁でいてくれ」みたいな。そういうふうに形式を安定させることで、指導が効率的になる、組織が円滑に回る、みたいな。

 
 で、そういう指導者、成熟してるはずの、そういうことにしといたはずの、自分たち球児より人間として成熟してるってふうに(暗黙に)取り決めといたはずの指導者が二枚舌を使うってのは、それはなんつーか、齟齬をきたす。ある種の「エラー」を起こす。つまり一方で球児である自分たちや世間(マスコミ)に「教育」や「倫理」、「指導論」を語っておいて、同じ口でサイン盗みとかのズルを指示する、この矛盾。――これは多分、選手たちにとっては結構しんどいと思う。別にオトナがズルくないとか本気で信じてるわけじゃない、そこまで馬鹿じゃないけど、でもなんつーか、でもやっぱ、アタマの隅で引っかかりはする、その二枚舌が靴の中の小石みたいな感じで気になる、みたいな。アイドルだってうんこすんのは分かり切ってるけど、でも実際うんこしてるトコ見たらやっぱ引くわ、みたいな。アタマでは分かってても見たくはない、見ればそれが意識に残っちまう、みたいな。あいつはうんこアイドルだ、とかなんとか。


 なんつーか、自分たちのボス、監督のツラを汚さないためにこそ選手たちが自主的にサイン盗みを、そういう不正をやる必要があるんじゃねぇかな、みたいな。それは別に監督のためにってことじゃなくて、むしろ自分たちのためにだ。二枚舌を使う、矛盾してるヤツが目の前にいる、二律背反野郎が自分たちの指導者としてそこにいる、って状態を回避するために、自分たちが自主的にズルを、みたいな。矛盾が目の前にそびえ立つ、自分たちを率いてる、ってことのそのキモさ、ウザさから逃れるために。自分たちの精神衛生上その方がイイだろ、と。

 

 自分たちが指導者の意に反してズルをする。――これは矛盾にならない。これはチームのカタチを、関係性を揺るがしてない。いや指導者の本当の「意」は「ズルしろ」だったりするかもしれないけど、でも表面的な「意」としての「ズルするな」に逆らってズルをする、サインを盗む、監督は悪くない、俺ら選手が勝手にやったことです、このカタチで進めること。ある種の分業体制。選手⇔指導者の間での。つまり子ども⇔オトナ間での。善玉担当はオトナで、手を汚すのはガキの方、それが模範的な、望ましい組織像、みたいな。

 

 監督の指示でズルをやるより選手が自主的にズルをする方が精神衛生上イイ。それはチームとして、選手にとって居心地がイイ。というか「監督は矛盾してる」って余計な思いがチラつかなくて済んで集中できる。監督を汚さずに、監督の綺麗ごとを綺麗ごととして成立させておく、そんで泥を自分たちで被る、自分たちの意志で不正に手を染める、――自主的、能動的な悪。そこには「覚悟」って感じのヒロイズム、感傷が伴って、それもそれで選手のテンション上がる要因、イイ感じで自分たちに酔えるし一石二鳥だろ、ダークヒーロー感出てもう最高だろ、みたいな。

 

合理的選択としてのサイン盗み 

 まぁ普通に考えりゃサイン盗みをした方が勝つ確率は高まるだろう。勝つためにはサイン盗みはやった方がいい。

 

 そんで、普通に考えて、チームの居心地ってのは悪いよりは良い方がイイだろう。自分たちの指揮官が矛盾野郎だって日々思いながら部活をやりたくはないだろう。だから、組織の住みよさのために、心の安寧のために、選手たちは自主的にサイン盗みをした方がいい。指揮官を奥歯に挟まったモノにしないために。穢れなき処女、瑕のない置物、綺麗ごと吐き出しマシンにしとくために。

 

 ってことでサイン盗みはやった方がイイだろう。選手たちが自主的に。自由意思を以って。基本デメリットもないだろう。自分たちの意思でやるなら。勝てるし心は安らかだし、と。

 

――そんで、まぁ裏返せば、指導者は選手たちにどう自主的にサイン盗みをするよう仕向けるか、みたいな。自分がズルしろと言わないこと、自分が手を汚さないことが選手のためになるんだってことを理解して、どうやって選手たちが代々自らの意思でサイン盗みをする「伝統」を育ませていくか、みたいな。いやマジの話で、現実に監督も選手も、こういうことは日々考えてるんじゃねぇかな、と。そういう主体、かつ組織のパーツとして指導者や選手を見てると高校野球って超おもしれぇ、熱い! みたいな。

 

P.S.

 あとサイン盗み関連で、っつーかサイン盗みの防止策として使えそうかも、とか思ったのが「審判の不公平さ」だ。

 

www.news-postseven.com

 

 監督に就任する年、鍛治舎は自身が率いていた中学硬式野球のオール枚方ボーイズの選手をごっそり入学させ、秀岳館を瞬く間に強豪に育て上げた。しかし、熊本出身者が一人もいないメンバー構成は「大阪第2代表」とも揶揄された。

 川上哲治を生んだ、高校野球の盛んな熊本を戦う難しさとして、伝統校と戦うと、どうしても不利な判定になると鍛治舎は話した。

「私は就任してからこの3年、公式戦の主審に対して、『○・△・×』の評価を付けていた。熊本の伝統校とやる時の主審はすべて『×』の主審ですよ(笑)」

 

  まぁ少なくともこの監督から見たら高校野球の審判は故意あるいは無意識にせよ判定にバイアスがかかってるってことで、普通に見りゃ「ちゃんとやれや審判」ってことだけど、でもサイン盗みに関してはこれがちょっと抑止力にもなるのかもな、ってか実際多少なってたりしてんのかもな、みたいな。現状サイン盗みへの罰則はなくて、っつーかまぁ高校野球とかだと多分それを作って運用するのはかなり無理ゲーで、じゃあやったもん勝ちじゃんってことになって、けど「サイン盗みがバレたらそのあと審判のジャッジがきつくなる」と思えば、というか思わせれば、それが抑制効果を多少発揮すんのかな、みたいな。そう思うと審判の機械化とか審判の能力向上、感情に左右されない正確なジャッジを目指す、みたいなことは必ずしもパーフェクトに歓迎、って話にはなんねぇかもな、みたいな。むしろもっと不公平な、というか「変なマネしたら不公平なジャッジするからな」ってオーラを全身から醸し出しとく、そのオーラの多寡を調節してサイン盗みの発生率をコントロールしとく、みたいな。分かんねぇけど。

 

 

 

 

  サイン盗みとかの不正を、なんつーか「普通に描写してる」野球マンガってあるんかな。要するにゲスな悪役がそういうことしてますとかじゃなくて。――この漫画だと敵チームのコーチが選手のひとりにこっそりラフプレーやらせてて、それはまぁゲスな三下悪役じゃないけど、こう、「フィーチャーしてる」って感じで、「レギュラー欲しさにラフプレー遂行を受け入れた選手はその後めちゃくちゃ悩んで傷付いてます」って描写がされてて、それはそれで悪い表現とは思わんけど、もっとこう、普通にさらっと書いてるというか、当たり前のもんとしてあんま善悪もドラマ性もなくサイン盗みとかやってます、的なマンガ、あったらぜひ教えていただければ、みたいな。読みてぇ。

 

神と倫理と神代わりの1単語

 

 東浩紀さんがトークショーで面白いこと言ってた。個人と社会の倫理、みたいな話だった。

www.nicovideo.jp

 3時間22分目ぐらいからで、だいたい下記、みたいな感じ、だった。

 

 世界というのは、基本的に私たちの予測を超えていて、どう行動したとしても、自分は良い人生を歩むかもしれないし悪い人生を歩むかもしれないし、明日死ぬかもしれないし死なないかもしれない。けど、私たちが自分たちを律するときには、世界は予測可能だという信頼がなければ、自分たちへの信頼や指針を失うから、非常に非倫理的かつ道徳もない状態に陥っていくんですよね。

 

 僕たちは自分たちを律するために世界を信じる必要がある。つまり、例えばビジネスをやるなら、「良いモノを売ったら儲かる」と信じる必要がある。悪いモノでも「ワンチャンあり」と思った瞬間に何でもできるようになってしまう。(…)世界そのものへの正確な認識としては、結局何を売ったって当たるときは当たるし当たらないときは当たらないんですよ。

 

 個人を律するには使えない統計的な原理のようなモノを、本当は錯誤だけれど個人に落とすことによって僕たちの倫理は作られているんですね。で、そのことによって社会と自分の行動のフィードバックがあるかのような幻想を抱いているわけです。この幻想を抱くってことが、実は僕たちによってすごく重要だと思うんですね。
 本当は嘘かもしれないけど、ひとりひとりが「世界には原理がある」と思ってることって大事なんですよ。それは個人の単位で見ると嘘なんだけど、その嘘がまとまると、それは本当になるんですよね。

 

今の僕たちの世界は、ひとりひとりの人間に「お前らの人生って結局パチンコ玉みたいなもんだぞ」って現実を日々Twitterなどで突きつけてくる時代になっているわけですよ。このことの持つ効果っていうのは僕はあまり良くないと思ってる。それは真実なんだけど、真実が持ってる二次的な効果ってのが問題なんです。世界がブラックボックスだって言うことは良くないと思ってるんですよね。勿論本当はブラックボックスなんですよ。ただみんながブラックボックスだって信じると、良くない世界になる。

 

 別に「世界の真実を知らず大衆どもは馬鹿でいろ」って話じゃない。これは。そうじゃなくて、「人生は運ゲー」と知りつつどうそれを自分の行動に反映させないか、って話だ。二重思考っつーか、自分の中で、世界認識と倫理の互いの牽制っつーか。


 それは基本、程度の差はあれ誰でも普段やってる、とりあえず割とできてることだ。真夜中の無人の交差点で信号無視をしたときのあの感覚、みたいな。青を待ってんのは間抜けだから進む、けどそのときの「俺は今赤だけど渡った」って意識。それはなんつーか、「世界は無意味だ」って真実への認識と「世界は予測可能だって信じとく」って倫理がゼロコンマ1秒鍔迫り合ってる瞬間、みたいな。で、普段はその鍔迫り合いすらあんま表面化しないで、まぁ割とうまくやってる、そこそこの「正論」とそこそこの「倫理」をうまく揺らしながら生きてる、みたいな。


「世界には原理がある」、そうアタマっから信じ込んでるヤツらばっかだと、それはすごい窮屈な、正義感の蔓延する、自己と他者への草の根監視地獄、みたいなふうになる。

 逆に「世界は運ゲー」としか思ってないなら、単に無秩序、ホッブズのリヴァイアサン的なことになる。

 

 これで思ったのは「神」についてだった。東浩紀の言う「世界は予測可能だという信頼」ってのは、翻訳すれば神ってことだ、と思った。よく海外に行ったときは嘘でもいいから仏教徒ですとか言え、特に宗教は信じてませんとか言うな、白い目で見られるから、的な「あるある忠告ネタ」があって、それは要は外国人が「世界は予測可能だという信頼」のことを「神」と呼んでるって話じゃねぇかな、みたいな。

 

 この動画でも東浩紀はちょっと言葉に詰まって、この話題で5分ぐらい話したあと、もっとクリアに説明出来たらいいんだけど、的に苦笑してて、いやまぁ全然分かりやすいとは思うけど、でもさらに簡単に、1単語で言えばやっぱ「神」だろ、みたいな。

 

 これも外国あるあるネタ(どの程度本当か知らんけど)として、外人からすりゃ無神論者よりは異教徒の方がまし、みたいな話は結局そういうことで、つまりぶっちゃけどういう神でもOK、神が義の神だろうが妬む神だろうが怒る神、多神、汎神、機械仕掛け、腕が100本あろうが球体だろうが何でも良くて、「神がいる」って言うことが「嘘でもとりあえず世界は予測可能だということを信じるふりをしてます」ってことの表明であって、要は倫理の証明、ってかもっと言えばある種の謙遜、「俺はトガッてるぜみたいなアピールしません」的な、まぁそういう捉え方を外人はしてるんじゃねぇかな、みたいな。

 

 だからそういう意味で、アメリカ人でもなんでも、外人って俺らが思うより神とか信じてないんじゃねぇかな、神自体は問題じゃなくて、「神を信じる」って言明こそが肝なんじゃねぇのか、みたいな。信じてないけど信じてる、その形式が重要、みたいな。要は単純に、「世界は無意味だ」とかわざわざ言っちゃってるヤツのダサさ、みたいな。ひろゆきとか古市憲寿あたりの「身も蓋もないこと言ってりゃカッコいいと思ってんだろ」的な、あの系統のイタさ、みたいなもんを、外人は「私は無神論者です」って言ってるヤツに感じてんじゃねぇかな、みたいな。――昔司馬遼太郎の小説読んでて、家康の側室が好きな食べ物訊かれて「塩です」って言って家康に気に入られた、で横でそれ聞いてた家来がイラっときた、みたいな場面があって、なんとなくそんな感じの小賢しさ、「お前シャラくせぇよ」みたいな。そういうことじゃねぇじゃん、みたいな。嘘でもカレーとかパンケーキとか普通に言えや、みたいな。――んな感じのイタさ、みたいな。わざわざ無神論とか言うなよ、「世界は無意味」とか言ってモノ申した、一頭地を抜いた気になってんじゃねぇよ、みんな知ってるわ、知っててやってんだわ、みたいな。

 

「神」の別の言い方があればイイのかもな、とか思う。東浩紀でさえ説明に5分かかってんだから、日常の会話としては絶対この感覚、この概念の説明無理だろ、なんかひとことで言えりゃ、それで結構イイ感じかもな、みたいな。日本人的には「神」って言葉が多分永劫馴染まない、でも今んトコそれに対応するちょうどいい言葉、そういう便利な1単語がないから、「世界は無意味です」的な「真理」を言いたい、それでマウントとりたいって目先の欲望に日々負ける、みたいな。5分かけて説明とかだるいから「真理」に逃げるわ、みたいな。楽な勝ち方しとくわ、と。それがTwitterとかでも乱れ飛んでる、みたいな。

 

 まぁ別に、個人的には大した問題とは思わないけど、まぁでも確かに、油断すると俺も「意味なんかないぜ」とか言って悦に入っててそれを鏡で見てゲンナリ、みたいなことはよくあるから、そういう日々の繰り返すウンザリが減る何か、神に取って代わる何か1単語があるなら、それに越したことねぇだろ、みんなしてそれ使い回せばいいだろ、みたいな。便利なその魔法の言葉を。誰か作ってくれ。アホな俺らに。

 

 

 この本好きなんだよな。うまく言えないけど東浩紀のマイルドヤンキー感っつーか、東さんの経歴にそんな要素どこにもないのにそういう感じがするというか、これ、うまく理解したいとは思ってんだけど、どうも昔からうまくいかねぇな、みたいな。

 

 

ゴミ

 

drive.google.com

 何年か前、ってか2019年の3月に書いた文章。メフィスト評論賞、っていう新人賞に出した(そんで落ちた)評論。実家でニートしながら、1日15時間寝ながらだらだら書いてたやつ。

 

 受賞作はこの号に載ってる。

 

選評はここで読める。

メフィスト評論賞 法月綸太郎×円堂都司昭 選考対談【前編】|tree

 

 

  これをネタに評論を書いた。っつってもメフィスト賞作家の作品を題材に、って条件だったからそうしたってだけで、別にネタは何でも良かった。当時ぼんやり思ってたことを書いてみようと思って、まぁ、バーッと、書いた。

 

 書きながら考えてたのは自分が昔書いた小説、「金属バット」ってラノベのことだった。「語り手の主人公は、語り手で主人公だから何でも自分の思い通りにできて、可愛い女の娘とかにも惚れてもらえて、そんでその何でも叶う感が嫌になって自殺する」って話で、まぁ文学の世界だとかなり定番の、ありきたりな話、ありふれたメタフィクションだった。「物語批判」、「作者の罪」とかなんとか、それ系の。

 

「金属バット」を書いてたのは22歳、大学生のときで、そんときは結構それに、その考え方に満足してた。割と正しいと思ってた。
 今はもうそう思ってない。「作者の罪」、「書くことの罪」、「表現という行為の罪悪」、みたいなふうには思ってない。そういうのは大げさで自意識過剰で、カッコつけてて、ってか飽きた。単純に。んなふうな悩むふり、切実なふりに。
 
 今は全部同じだと思ってる。書いても書かなくても。描いても描かなくても。何を作っても作ったことにならない、何がどうあっても同じだわ、みたいな。――そんで、だからこそ誰が何を書いてもいい、みたいな。俺たちは誰も罪なんか犯せない、んな大層なタマじゃない、あんたが何をしたってそれは何でもねぇよ、何も起きてねぇよ、だから自由にやれよ、ハッピーエンドもバッドエンドも、どんな一挙手一投足も。すべてがゆるされてる。すべてが同じように、あってもなくても同じだよ、だから、気楽にいこうぜ、みたいな。

 

 死ぬまでにもう1冊、どうにかうまくやって、本、出したいなとは思ってる。要するに「気楽にいこうぜ」って言ってる本を。「金属バット」と真反対の話を。「金属バット」と真反対で、「金属バット」の続きのその話を。「気楽にいこうぜ」とかなんとか、呪文のように100万遍唱え続けてる文章を。

 

 

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 これの「ヤンシュヴァイクマイエルの午後」って曲を延々聴きながら書いてた。すごい好きな曲。

 

単純作業とラジオ代わりの諸々

 

 最近在宅のバイトをやってる。結構久々に働いてて、しかもフルタイム、朝から夕方まで働くのはもう何年かぶりって感じで、だから割と疲れてる。単純に肉体的に疲れてる。座る、って行為、っつーかその継続が単純にしんどい。骨と肉が座るってことに飽きてる、みたいな。


 逆にアタマは1ミリも疲れない。アタマは全然使ってない。ヒトと話すってこともなくて気疲れも全然ない。多分世界一簡単な仕事だと思う。マジでコピペするだけ、みたいな。エクセルに貼り付けてくだけ、みたいな。座り疲れ、以外には何の不満もなくて、立ち机、みたいなやつ買って立ってやろうかな、とか思ったりもしてる。あれ良さそうだよなぁ。

 

 ――で、そんな感じでアタマは完全に暇で、ってわけで作業中に動画を観てる。観てるってか聴いてる。ラジオ代わりにしてる。昔好きだったアニメとかを垂れ流してる。まぁまぁ音だけでもどうにかなるもんで、ぼちぼち楽しんでる。やっぱクレヨンしんちゃんおもしれー、伊藤潤二かっけー、ズッコケ3人組マジかよ、みたいな。

 ここ最近ハマってたのは下の3つだった。

 

1.四畳半神話大系

anime.dmkt-sp.jp

 「ラジオ代わり」に一番向いてるアニメだと思う。主人公がモノローグでべらべら喋るから画面見なくてもだいたい分かる。いや、というかもうべらべら喋ってんのをぼーっと聴いてんのが心地いい、みたいな。昔から何百回も観てるから、ってのもあるけどもう内容とかはどうでも良くて、ある意味何も感じなくて、ただ流れてく、みたいな。音だけだとなおさらそうなって、主人公が夜中に屋台のラーメンを食べに行くシーンで、そこで鳴る風鈴の音とかがあーイイわ、みたいな感じで、全体的にそんなふうに、なんとなくノスタルジックな、うまいことくすぐってくるぜ、みたいな。
 京都大学が舞台の青春小説、の変化球、みたいな作品で、これ観てると京大行きたい、って気分になって、だから中学生とか高校生にこれ見せたら頑張って勉強するんじゃねぇかな、みたいな。東大以外くそだって思ってるヒト以外は子どもにこれ見せたらイイんじゃねぇの、将来京大生の親、ってご身分になれる確率高まるんじゃねぇかな、みたいな。

 

2.ダイヤのエース

anime.dmkt-sp.jp

 『四畳半神話大系』ほどばっちり「ラジオ代わり」って感じじゃないけど、でも個人的にはちょうどいいわ、みたいな。原作全部読んでるから、音だけ聴いても場面だいたいちゃんと分かって、そんでちょっといまいち忘れてたなってトコも改めて「あーはいはいそうでしたそうでした」みたいな感じで程良い「新鮮味」で思い出させてくれる、って感じで、ともかくイイ感じだぜ、みたいな。
 そんで、いやこれも完璧個人的なあれだけど、普段萌えアニメ、女の娘ばっか出てくるアニメとかしか観ないから、逆にこういう男だらけのアニメだとむしろ声優超豪華、みたく感じたりする。梶裕貴も森久保祥太郎も山下大輝も杉田智和も出てる!すげぇ!みたいな。特に神谷浩史さん、すごい好きだわ。

 

3.太田上田

www.youtube.com

 小学生のとき爆笑問題とくりぃむしちゅーの本読んで、そっからファンになって、だからこの番組はもう夢の共演、みたいな。
『太田上田』でツボ、ってか好きなのが、上田が年上で先輩の太田にタメ口で話してるトコで、そのタメ口がすごい自然で、番組全編でそうなんだけど、でも振舞いの微妙な端々で時折ふと先輩後輩って関係性が垣間見えたりして、つまり太田さんが先輩として後輩の上田さんを案じたり優しい目で見る、「かわいいヤツ」みたいな感じで接したりする、そんで上田さんが後輩として、芸の先輩たる太田さんを立てる、敬う、みたいな「姿勢」をさらっとこなす、そういうやり取りが、多分この番組の1番の見どころ、聴きどころじゃねぇかな、みたいな。

 芸人とかに限らず他のどの世界でも「タメ口の先輩後輩」的な関係はあったりするけど、なんとなく昔からそういうのは傍から見てて好きだったりする。「タメ口」の中にある「一線」というか、その中で微妙に揺れる「ライン」みたいなもんに気遣いつつ、でも時にはその一線に足をかけて、そうやってある種じゃれ合って絆を強めて、みたいな自然な「駆け引き」が、結構魅力的に見えたりする。まぁ多分自分じゃ絶対そういうのができないからそう思うってのもあって、つまり俺は先輩とか目上のもんには敬語以外でやれないし、逆に後輩とかからタメ口でこられたら絶対イラっと来るから、まぁ、自分に無いモノ、自分にできない立ち振る舞いに憧れるって意味で、そんでそういう「タメ口の先輩後輩」的関係性、やり取りとしての最高峰、一線級の芸人ふたりがやってるそれは最高の見世物、エンターテイメントで、そういうわけで『太田上田』はすごい好きな番組だ。ゲストが来ても面白いけど、でもできれば延々ふたりきりで喋っててほしいわ、みたいな。

 

――ともかく単純作業とラジオ代わりのあれこれを聴いてる日々だ。八王子で引きこもってるともうまったく外のことが何も分からん。ウーバーとか出前館が便利ってこと以外。

 

 

出張と読書

 

 大学を出て丸2年、地元の町役場で働いてた。人口10000もないド田舎だった。

 割とちょこちょこ出張に行ってた。っつってもだいたい行くトコは同じで、ほとんどは県庁だった。県庁に呼び出されてお膝元のホテルとかで会議、説明会、みたいなノリだった。大したアレじゃなかった。

 

 普通はみんな車で行ってたけど、僕は運転が苦手で、よく電車を使ってた。電車で1時間、揺られて行ってた。時間をごまかして、ちょろまかして、1本早い電車で行ったりしてた。青森みたいなド田舎の電車は1時間か2時間に1本しか来ないから、要は1時間か2時間余分にサボってた。いや帰りもそんな感じで、電車に間に合わなかったふりとかして、5時過ぎに戻ってきて、そのまま家に直帰、みたいにやってた。まぁ半端に、ちんけにサボってた。要はいてもいなくても同じだった。サボっても大丈夫なようなしょぼい仕事しかしてなかった。多分役場で1番楽な身分だったと思う。一緒に役場に入った友だち、保育園から高校まで一緒のトコに通ってたそいつとかは税務課とかに配属されて結構しんどい仕事とかしてて、まぁ将来の幹部候補、みたいな感じで、期待されてて、10年後、20年後はそいつの部下になって課長さん、とかなんとか、敬語で話しかけてる、しくじってそいつに怒られてる未来の自分の姿が見え見えで、まぁ、そんな感じだった。そうってだけだった。

 

 出張のときはよく本を読んでた。というかそのときぐらいしかろくに本なんか読まなかった。適当に1冊、持って行ってた。ぱらぱらと適当に読んでた。
 そんで、憶えてない。とっくにもう。内容も、何を読んだかさえ。タイトル1文字すら。つまり要は読んでなかった。読んだことにならなかった。多分一生思い出せない。忘れてる。何もかも。

 どうにか憶えてるのは、まぁ、3冊ぐらいだった。

 

1.テッド・チャン『あなたの人生の物語』

 

 SFの短篇集で、その中の「地獄とは神の不在なり」って短編だけ憶えてる。神や天使が普通にいる世界で、そんで天使が台風や稲妻、そういう自然現象みたいな感じの在り方で描かれてて、雨が恵みの雨だったり洪水になってヒトを殺したりするのと同じように、天使に遭うと病気が治ったりするときもあるし死んだりすることもある、みたいな感じになってて、そんな感じの、「物理現象」としての神や天使がぐるっと一周回って神性、超越性を帯びる、三日月や稲妻の「意味」が分からないのと同じように神さまの「意味」が、「理由」が分からん、分からないけど現実として在る、どう思うにせよそれはこの世界にあるぜ、みたいな感じで、なんというか、神がいる世界でもいない世界でも、どういう在り方で神がいようがいまいが、ヒトは神について考えるのをやめられないぜ、的な作者の主張がばーんと投げつけられてて、「お、おう」、みたいな。神は天にいまし、とかなんとか。

 

2.ジム・トンプスン『この世界、そして花火』

 

 読んだことだけ憶えてる。内容はひとつも思い出せない。
 トンプスンは好きで、結構読んでた。アメリカの、昔の売れないエンタメ作家で、死んでから「文学的にイイぜ」みたいな評価が高まった作家で、アメリカだと誉め言葉で「安っぽいドストエフスキー」みたく言われてるらしくて、あーなるほど、確かにそうだなって感じで、展開とか結構急だったりするけど逆にそれが「リアル」だわ、まぁそんなもんだよな、ヒトのアタマ、ロジックなんてこんなもんだよな、ラスト3ページでガッと変わってばーんと殺してはいおしまい、みたいになったっておかしくないよな、みたいに思えて、トンプスンを読んでると他の探偵小説が、この世界のミステリ作家全員が世界一話の長いヤツら、話の下手くそなヤツらに思えて、いいわ伏線とか、うぜぇわ、みたいな。誰が犯人でもどれが理由でも同じだわ、みたいな。

 

3.魯迅『阿Q正伝・狂人日記』

 

 短篇集。表題作の「阿Q正伝」だけ憶えてる。ラストの処刑場面、というか処刑前後の場面が好きだった。自分が何をしたか、今何をしてるのかも分からない阿Q。分からないまま自白して書類にサインして市中引き回しにされて殺される阿Q。「よく分かんねぇけどまぁこういうこともあるんだろう」とか思ってる阿Q。分かんねぇけどまぁこうやって死ぬこともあるんだろうと。まぁそんなもんだよな、とか思って死んでいく。
 阿Qの処刑を見た野次馬たちはガッカリしてる。死ぬってのに気の利いたことも言わない、見栄えのする、語り草にできる死に方をしなかった阿Qにガッカリしてる。――昔の、独裁時代のフランスかどっかの首切り役人が、「処刑されるときはみんなやたらとカッコつけてて、でもそうやって気取ってるから《王さま》のくそみたいな専制がだらだらと続いちまってて、もっとみんな、ちゃんとみっともなく死にたくないとか叫びわめいてジタバタすりゃ良かったんだ。そうすりゃみんな、これは間違ってる、みたく気づけたんだ。物語に酔わずに済んだんだ」みたいなことを言ってた、のを思い出した。

 

 あとはブコウスキーとかも読んでた気がする。でもブコウスキーみたいな「無頼」作家を読んで出張行って、村役人として県庁の職員サマのトコに行ってお話をうやうやしく拝聴して、みたいなのは今思うと相当間抜けな絵ヅラじゃねぇの、とか思わなくもない。いや逆にそのギャップをマゾヒスティックに楽しんでた、って気がしなくもない。分からん。忘れた。

 

 

世界も歴史も文学もゴミだと思ってたボルヘス

 

 ボルヘスって作家がいて、個人的に1番好きな作家だ。アルゼンチンの作家で、ガキの頃から本の虫で、国立図書館の館長とかにまでなったのに失明、みたいなカッコいいエピソードとか持ってて、そういうのも含めて有名な、世界中の文学青年のアイドル、みたいな作家だった。

 

www.youtube.com

 

 ボルヘスにハマったのは結構明確なきっかけがあって、THE PINBALLSってバンドの曲を聴いたからだった。昔からボルヘスの本はちまちま読んでたけど、THE PINBALLSを聴いて、それですげぇイイ、1番イイってぐわっと好きになった。特に詩が。小説とかエッセイは面白いけど詩はよく分かんねぇなって思ってたけど、THE PINBALLSで分かるようになった。補助線になった。

 

 

『創造者』って詩集が1番好きだ(まぁそれ以外の詩集も大して変わり映えないけど)。シェイクスピアをネタにした「全と無」、神の存在を証明する「鳥類学的推論」、夢で神を撃ち殺す「ラグナレク」、ドン・キホーテの狂気を考察する「一つの問題」、基本どれもイイけど、中でもイイのは「陰謀」って詩だ。

 

 友人たちのいらだつ短剣に追いつめられていたカエサルは、寵臣であり、わが子とさえ思っていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスの顔を、その身に迫る白刃や人びとの中に認めて、恐怖のどん底に突き落とされた。身を護ることすら忘れて、彼は絶叫した。「ブルトゥスよ、お前もか!」シェイクスピアとケベードがこの悲痛な叫びをその作品に借りている。

 運命というものは反復や変異や相称をよろこぶ。あれから1900年後、ブエノスアイレス州の南部で、一人のガウチョが他のガウチョらに襲われた。倒れるとき、そこに名付け子の顔を認めた彼は、ゆっくりと襲う驚愕のなかから、穏やかな非難をその声にこめて叫んだ(このことばは聞くべきであって、読むべきものではない)。「ペロ、チェ―!」(なんだ、てめえ!)彼は殺されたが、同じ一つの場面が反復されるために死ぬのだということは知らなかったはずである。

 

 要するにカエサルの死も無名のチンピラの死も同じモノでしかないと。カエサルの死もリンカーンの死もケネディの死もソクラテスの死もその他諸々のどれもこれもひとつのモノ、再演でしかないと。要はこの世界の歴史とは単に反復に過ぎないと。そしてこの世界それ自体がもう、歴史を反復させてるだけのちんけなモノ、しょぼいステージでしかないと。世界は、歴史とはその程度のモノでしかないぜ、的な。

 

「地獄篇、第一歌、三十二行」って詩も結構印象的で、詩の中で動物園のヒョウが夢を見る。夢の中で神の言葉を聞く。神は言う、要するにヒョウ、お前がここにいるのは詩のためだと。ある詩人に詩として書かれるためにお前はこの檻の中で生き、死ぬんだと。要するにそのヒョウの「意味」ってのは詩に書かれることなんだと。

 そんな感じの、「文学至上主義」的な詩や小説、エッセイをボルヘスは結構書いてる。森羅万象は詩人や芸術家のための「題材」として在る、というかそのためのモノでしかない、この世界は、この世界の歴史はその程度のものでしかないぜ、的な。ボルヘスの18番の発想、テーマで、だから多分ボルヘスは歴史小説とかみたいなもんを心底バカにしてたと思う。なんかいろいろ書いてっけど、仰々しく歴史上の場面、人物、エピソードであれこれ人形遊びやってますけど、お前らそれ全部おんなじだから、歴史とかほんとうんこだから、みたいな。ボルヘスはそうやって鼻で笑ってたと思う。

 

 そしてそれはつまり、結局は文学もまたうんこ、ゴミだってことだ。何故ならどの詩もどのアートも要はバカのひとつ覚えで反復し続けてるこの世界をネタに出来上がってるモノでしかないから。どの芸術もこのちんけな世界を描いてるだけでしかないから。芸術は、文学は要はその程度のモノでしかないから。うんこをネタにこしらえるうんこでしかない、ゴミをスケッチしてるだけでしかない、そんで世界(史)ってゴミから作られた文学ってゴミもまた結局は世界の一部、ゴミの山の一片を為すゴミでしかない、ゴミをひとつ付け足したに過ぎない、じゃあもう同じじゃねぇか、何を書いても何をやっても一緒じゃねぇか、同じ意味しかなくて、ならもう意味なんてないってことじゃねぇか、みたいな。文学至上主義、からの文学のゴミ化。世界もろとも無意味なガラクタ。すべての詩が。すべての表現が。

 

――そんで、だからこそ何を書いてもいい、みたいな。全部ゴミで全部無意味なんだから何をどう書いてもいい、神をどう描いてもいい、どんな嘘をついてもいい、引用を捏造していい、感傷を偽造していい、すべてが赦されてる、何故ならすべてがどうでもいい、誰が何をしようと何もないから、何も起きなかったのと同じだから、みたいな。ボルヘスってのはそういう作家で、そういうボルヘスに影響されて今日も明日も世界中、そこらじゅうで文学青年が生まれて、けどそんなもん、とっくに死んだボルヘスには関係なくて、そういや昔、ボルヘスは『天国・地獄百科』ってアンソロジーを出してて、けどまぁボルヘスほど死後の世界を、天国も地獄も自分の死んだあとのこの現実も信じてなかったヤツはいないよな、みたいな。

 

 

 

 

フィクションを現実にした三浦春馬

 少し前、三浦春馬さんが亡くなったときに思ったのは「おお、映画と同じじゃん」ってことだった。

 

 映画ってのは昔三浦さんが出演してた『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』って作品で、三浦さんはその中で能登って高校生の役だった。主人公の山本(市原隼人)の友だちで、死んだ友だちって役だった。

 

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遅刻の罰にグラウンド10周。マジになるようなことじゃない。なのにあいつはガムシャラに走っていた。

 

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いつも冷めてる能登が突然怒り出し、ムチャクチャな行動に出ることがあった。何がヤツをそんなに怒らせたのか。多分許せなかったのだ。いろいろなことが。

 

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 能登はそういうヤツで、そんでバイクで事故って死ぬ。というか自殺する。

 

そして、オレはいつだってあいつから周回遅れで走っていた。

 

 山本は能登に憧れていて、特に能登が自殺したことに憧れている。そういうやり方で現実から逃げ切ったことを。そういうやり方で自分の怒りを表現したことを。

 

 何かが間違ってる、納得いかない、今がイイとは思ってない、今の先、未来が良くなるとも思わない、変わることも変わらないこともイイと思わない、何かが違う、完璧じゃない、幸せじゃない、くだらない、――だけどそういう感情のぶつける先が分からない、表現の仕方が分からない、いや分からないというかぶつける先なんかこの世界に存在しない、表現の「手法」なんざこの世界に存在しない、まぁ強いて言えば今すぐ死ぬこと、バイクで全速力で突っ込んで今すぐに自殺することがかろうじて「冴えたやり方」で、けど大抵のヤツらはそんなふうにはやれない、能登のようにはなれない――そういう焦燥や息苦しさってのがこの映画のテーマで、そんで、主人公は「チェーンソー男」って怪物、まぁ主人公とヒロインのその妄想、共同幻想と戦うことでそうした現実、戦うモノなど存在しないって現実から逃避してる。逃げてると分かってるからこそ死んだ能登に憧れてる。死んだ能登のように自分も、この妄想の果てにチェーンソー男に殺されることを願ってる。夢見てる。そして夢から覚め、生き続ける。

 

 この映画で一番いいシーンは山本・能登・それとふたりの友だち、渡辺(浅利陽介)の3人がバンドをやって曲を演奏してるシーンだ。っつってもそれは実現しなかった風景、山本と渡辺の「妄想」の光景だ。

 

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 これが感動的なのは、これがしょぼいからだ。つまり感情のぶつけ先がない、自分のこの焦燥感や怒りの表現のやり方がないってことのその表現のやり方がロックバンドをやるとかいう死ぬほどありふれた、陳腐でちんけなモノだからだ。山本も渡辺も、そんで能登(いや正確には山本と渡辺ふたりの想像上の能登、死ぬことができずにだらだらと自分たちと一緒に生きてるはずだった架空の能登)も、例えば汗流してボール追いかけ回してる高校球児とか学園祭で友だちどうしでバンド組んで体育館でそれを披露してるようなヤツら、それで何かをやった気になってる、充実した気になってるようなヤツらと自分は違うと思ってて、そんなことをやっても自分たちのこの感情は晴れたりしないと思ってて、けどその発露の仕方は結局その「青春ごっこ」と同じようなカタチしか取れない、どこかで聴いたような詞とメロディーのしょぼいポップスにしかなってない、――そのモノ悲しさ。どうにもならなさ。「こんなもんじゃどうにもならない」はずだった自分が、「こんなもんでどうにかなってる」ヤツらと同じことをしてる、結局自分も、他のヤツらと同じことしかしてない、同じことしか考えてない、同じでしかない、そうなっちまう、みたいな、そういうふうに自分の中の言いようのない感情、「何か」が矮小化していく、何もあったことにならなくなっていく、ひと山幾らの「青春の蹉跌」、「若者の葛藤」ってモノに回収されていく、そういうのがすげぇ残酷に現れてるシーンで、だからこそめちゃくちゃ泣ける、感動するシーンだと思う。

 

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――この映画は10年以上前(2008年公開)の作品で、多分別に三浦春馬さんの代表作ってわけでもなくて、でもこの作品が好きだった自分からすりゃ三浦春馬って言えば真っ先にこの作品がアタマに浮かんで、そんで死ぬほど単純に、「自殺」ってことだけでこの作品の三浦春馬と現実の三浦春馬を結び付けてる。「フィクションを現実にした」とか思ってしまってる。だらしなく接着させてる。

 

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 この作品以外でも自殺する役、若くして死ぬ役、まぁなんやかんやで死ぬ役、とかなんとか、そんなのは多分三浦さんは幾らでもやってて、現実の三浦さんの死でそのそれぞれの作品がそれぞれのヒトに思い出されて、連想されて、結び付けられて、思いつかれて、いや死ぬ役がどうとか関係なく、三浦さんの死で三浦さんが演じてきたフィクションが、台詞が、雑誌の取材が、インタビューが、言葉が、振舞いが、楽屋での一面が、一挙手一投足がそれぞれにあれこれと思い返されて呼び返されて現実の三浦さんとの「共通項」や「対称性」が「発見」されて、思いつかれて、「奇しくも」とか「皮肉なもんだ」とか「暗示されて」とか「裏腹に」とかなんとか言われて、思われて、みたいなことを思うと、まぁ有名人ってのも結構大変だな、しんどいんだろうな、とか思わなくもない気もする。死がただの死にならない、意味のない死になれない、みてぇな。いや死というかその1秒1秒が、呼吸が、身じろぎが、みたいな。何をやっても無意味にならない、何もかもが伏線になる、自分以外のヤツらに喋られる、感傷の道具にされる、すべてが象徴的行為と化してる、すべてが、その人生すべてが「比喩」になっちまってる、「フィクションを現実にした三浦春馬」みたいなアホなことを死んでも言われてる、そこらじゅうでやられてる、いやなかなか、だるいだろうな、みたいな。意味にまみれてゲシュタルトの崩壊もできねぇよ、みたいな。「有名税」もなかなか大変ですな、みたいな。首を吊ってもあんたは俺たちから解放されねぇよ、みたいな。俺たちを周回遅れにはしたかもしれないけど、でも結局、同じトコをぐるぐる回ってるだけだぜ、あんたは俺らから、この世界から、意味から逃げられないわ、みたいな。

 

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)