神と倫理と神代わりの1単語

 

 東浩紀さんがトークショーで面白いこと言ってた。個人と社会の倫理、みたいな話だった。

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 3時間22分目ぐらいからで、だいたい下記、みたいな感じ、だった。

 

 世界というのは、基本的に私たちの予測を超えていて、どう行動したとしても、自分は良い人生を歩むかもしれないし悪い人生を歩むかもしれないし、明日死ぬかもしれないし死なないかもしれない。けど、私たちが自分たちを律するときには、世界は予測可能だという信頼がなければ、自分たちへの信頼や指針を失うから、非常に非倫理的かつ道徳もない状態に陥っていくんですよね。

 

 僕たちは自分たちを律するために世界を信じる必要がある。つまり、例えばビジネスをやるなら、「良いモノを売ったら儲かる」と信じる必要がある。悪いモノでも「ワンチャンあり」と思った瞬間に何でもできるようになってしまう。(…)世界そのものへの正確な認識としては、結局何を売ったって当たるときは当たるし当たらないときは当たらないんですよ。

 

 個人を律するには使えない統計的な原理のようなモノを、本当は錯誤だけれど個人に落とすことによって僕たちの倫理は作られているんですね。で、そのことによって社会と自分の行動のフィードバックがあるかのような幻想を抱いているわけです。この幻想を抱くってことが、実は僕たちによってすごく重要だと思うんですね。
 本当は嘘かもしれないけど、ひとりひとりが「世界には原理がある」と思ってることって大事なんですよ。それは個人の単位で見ると嘘なんだけど、その嘘がまとまると、それは本当になるんですよね。

 

今の僕たちの世界は、ひとりひとりの人間に「お前らの人生って結局パチンコ玉みたいなもんだぞ」って現実を日々Twitterなどで突きつけてくる時代になっているわけですよ。このことの持つ効果っていうのは僕はあまり良くないと思ってる。それは真実なんだけど、真実が持ってる二次的な効果ってのが問題なんです。世界がブラックボックスだって言うことは良くないと思ってるんですよね。勿論本当はブラックボックスなんですよ。ただみんながブラックボックスだって信じると、良くない世界になる。

 

 別に「世界の真実を知らず大衆どもは馬鹿でいろ」って話じゃない。これは。そうじゃなくて、「人生は運ゲー」と知りつつどうそれを自分の行動に反映させないか、って話だ。二重思考っつーか、自分の中で、世界認識と倫理の互いの牽制っつーか。


 それは基本、程度の差はあれ誰でも普段やってる、とりあえず割とできてることだ。真夜中の無人の交差点で信号無視をしたときのあの感覚、みたいな。青を待ってんのは間抜けだから進む、けどそのときの「俺は今赤だけど渡った」って意識。それはなんつーか、「世界は無意味だ」って真実への認識と「世界は予測可能だって信じとく」って倫理がゼロコンマ1秒鍔迫り合ってる瞬間、みたいな。で、普段はその鍔迫り合いすらあんま表面化しないで、まぁ割とうまくやってる、そこそこの「正論」とそこそこの「倫理」をうまく揺らしながら生きてる、みたいな。


「世界には原理がある」、そうアタマっから信じ込んでるヤツらばっかだと、それはすごい窮屈な、正義感の蔓延する、自己と他者への草の根監視地獄、みたいなふうになる。

 逆に「世界は運ゲー」としか思ってないなら、単に無秩序、ホッブズのリヴァイアサン的なことになる。

 

 これで思ったのは「神」についてだった。東浩紀の言う「世界は予測可能だという信頼」ってのは、翻訳すれば神ってことだ、と思った。よく海外に行ったときは嘘でもいいから仏教徒ですとか言え、特に宗教は信じてませんとか言うな、白い目で見られるから、的な「あるある忠告ネタ」があって、それは要は外国人が「世界は予測可能だという信頼」のことを「神」と呼んでるって話じゃねぇかな、みたいな。

 

 この動画でも東浩紀はちょっと言葉に詰まって、この話題で5分ぐらい話したあと、もっとクリアに説明出来たらいいんだけど、的に苦笑してて、いやまぁ全然分かりやすいとは思うけど、でもさらに簡単に、1単語で言えばやっぱ「神」だろ、みたいな。

 

 これも外国あるあるネタ(どの程度本当か知らんけど)として、外人からすりゃ無神論者よりは異教徒の方がまし、みたいな話は結局そういうことで、つまりぶっちゃけどういう神でもOK、神が義の神だろうが妬む神だろうが怒る神、多神、汎神、機械仕掛け、腕が100本あろうが球体だろうが何でも良くて、「神がいる」って言うことが「嘘でもとりあえず世界は予測可能だということを信じるふりをしてます」ってことの表明であって、要は倫理の証明、ってかもっと言えばある種の謙遜、「俺はトガッてるぜみたいなアピールしません」的な、まぁそういう捉え方を外人はしてるんじゃねぇかな、みたいな。

 

 だからそういう意味で、アメリカ人でもなんでも、外人って俺らが思うより神とか信じてないんじゃねぇかな、神自体は問題じゃなくて、「神を信じる」って言明こそが肝なんじゃねぇのか、みたいな。信じてないけど信じてる、その形式が重要、みたいな。要は単純に、「世界は無意味だ」とかわざわざ言っちゃってるヤツのダサさ、みたいな。ひろゆきとか古市憲寿あたりの「身も蓋もないこと言ってりゃカッコいいと思ってんだろ」的な、あの系統のイタさ、みたいなもんを、外人は「私は無神論者です」って言ってるヤツに感じてんじゃねぇかな、みたいな。――昔司馬遼太郎の小説読んでて、家康の側室が好きな食べ物訊かれて「塩です」って言って家康に気に入られた、で横でそれ聞いてた家来がイラっときた、みたいな場面があって、なんとなくそんな感じの小賢しさ、「お前シャラくせぇよ」みたいな。そういうことじゃねぇじゃん、みたいな。嘘でもカレーとかパンケーキとか普通に言えや、みたいな。――んな感じのイタさ、みたいな。わざわざ無神論とか言うなよ、「世界は無意味」とか言ってモノ申した、一頭地を抜いた気になってんじゃねぇよ、みんな知ってるわ、知っててやってんだわ、みたいな。

 

「神」の別の言い方があればイイのかもな、とか思う。東浩紀でさえ説明に5分かかってんだから、日常の会話としては絶対この感覚、この概念の説明無理だろ、なんかひとことで言えりゃ、それで結構イイ感じかもな、みたいな。日本人的には「神」って言葉が多分永劫馴染まない、でも今んトコそれに対応するちょうどいい言葉、そういう便利な1単語がないから、「世界は無意味です」的な「真理」を言いたい、それでマウントとりたいって目先の欲望に日々負ける、みたいな。5分かけて説明とかだるいから「真理」に逃げるわ、みたいな。楽な勝ち方しとくわ、と。それがTwitterとかでも乱れ飛んでる、みたいな。

 

 まぁ別に、個人的には大した問題とは思わないけど、まぁでも確かに、油断すると俺も「意味なんかないぜ」とか言って悦に入っててそれを鏡で見てゲンナリ、みたいなことはよくあるから、そういう日々の繰り返すウンザリが減る何か、神に取って代わる何か1単語があるなら、それに越したことねぇだろ、みんなしてそれ使い回せばいいだろ、みたいな。便利なその魔法の言葉を。誰か作ってくれ。アホな俺らに。

 

 

 この本好きなんだよな。うまく言えないけど東浩紀のマイルドヤンキー感っつーか、東さんの経歴にそんな要素どこにもないのにそういう感じがするというか、これ、うまく理解したいとは思ってんだけど、どうも昔からうまくいかねぇな、みたいな。