ゴミ
何年か前、ってか2019年の3月に書いた文章。メフィスト評論賞、っていう新人賞に出した(そんで落ちた)評論。実家でニートしながら、1日15時間寝ながらだらだら書いてたやつ。
受賞作はこの号に載ってる。
選評はここで読める。
メフィスト評論賞 法月綸太郎×円堂都司昭 選考対談【前編】|tree
これをネタに評論を書いた。っつってもメフィスト賞作家の作品を題材に、って条件だったからそうしたってだけで、別にネタは何でも良かった。当時ぼんやり思ってたことを書いてみようと思って、まぁ、バーッと、書いた。
書きながら考えてたのは自分が昔書いた小説、「金属バット」ってラノベのことだった。「語り手の主人公は、語り手で主人公だから何でも自分の思い通りにできて、可愛い女の娘とかにも惚れてもらえて、そんでその何でも叶う感が嫌になって自殺する」って話で、まぁ文学の世界だとかなり定番の、ありきたりな話、ありふれたメタフィクションだった。「物語批判」、「作者の罪」とかなんとか、それ系の。
「金属バット」を書いてたのは22歳、大学生のときで、そんときは結構それに、その考え方に満足してた。割と正しいと思ってた。
今はもうそう思ってない。「作者の罪」、「書くことの罪」、「表現という行為の罪悪」、みたいなふうには思ってない。そういうのは大げさで自意識過剰で、カッコつけてて、ってか飽きた。単純に。んなふうな悩むふり、切実なふりに。
今は全部同じだと思ってる。書いても書かなくても。描いても描かなくても。何を作っても作ったことにならない、何がどうあっても同じだわ、みたいな。――そんで、だからこそ誰が何を書いてもいい、みたいな。俺たちは誰も罪なんか犯せない、んな大層なタマじゃない、あんたが何をしたってそれは何でもねぇよ、何も起きてねぇよ、だから自由にやれよ、ハッピーエンドもバッドエンドも、どんな一挙手一投足も。すべてがゆるされてる。すべてが同じように、あってもなくても同じだよ、だから、気楽にいこうぜ、みたいな。
死ぬまでにもう1冊、どうにかうまくやって、本、出したいなとは思ってる。要するに「気楽にいこうぜ」って言ってる本を。「金属バット」と真反対の話を。「金属バット」と真反対で、「金属バット」の続きのその話を。「気楽にいこうぜ」とかなんとか、呪文のように100万遍唱え続けてる文章を。
これの「ヤンシュヴァイクマイエルの午後」って曲を延々聴きながら書いてた。すごい好きな曲。