何故か知らんけど水曜どうでしょうの再放送がやってるとものすごい幸せな気分になる

 いや単純に自分が『水曜どうでしょう』のファンだからってだけかもしれんけど。というかどんだけ幸せのハードル低いんだよ、どんだけ日々の一挙手一投足がちんけなんだよって気もするけど。

 

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『どうでしょう』の中でも「原付シリーズ」が特に好きだ。原付で東京から北海道に帰ったり京都から鹿児島まで行ったりって企画で、大泉洋さんと鈴井貴之さんが延々とスーパーカブで走ってる。それを車に乗ったディレクターが後ろからカメラで延々映してる。

 

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 まぁ「原付シリーズ」以外の企画でも、どっか旅に出る企画だとだいたいは車の前方をずっと映しっぱなしなんだけど、それでも車内にタレント、大泉さんと鈴井さんがいればたまにはそのふたりにカメラを向けたりして、そんな感じで一応は画ヅラの「動き」があって、でも「原付シリーズ」ではふたりは車の外、車の前方に居座り続けて走り続けてるからカメラも固定で、――いやつまり、要は原付シリーズは画面に変わり映えがない、同じ光景しかないってのが、個人的にはすごくイイと思ってる、いや俺だけじゃなく多分大抵の視聴者はそう思ってる、ってことだ。

 

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「原付シリーズ」を見てて思うのは、日本全国どこに行っても同じだってことだ。同じような風景しかない、山があったり川や海があったり、でもそんなもんでしかないってことだ。基本的に大通り、国道とかを走ってるからってのもあるんだろうけど、でもどこを走ってても、青森だろうが鹿児島だろうが関東関西のどっかだろうが、同じ絵ヅラでしかない、均質な、ちんけな、くたびれた、色あせた、しょぼくれたもんでしかない、どこに行こうがどこにも行ったことにならない、俺たち「ここ」から出られないぜ、みたいなだるい雰囲気がしてて、で、それが妙に安らぐってことだ。そういう意味じゃ「原付シリーズ」の再放送を見てて幸せってのはかなり後ろ向きの幸福であって、でもまぁ悪くないぜ、むしろそういう気だるい幸せの方が疲れなくていいわ、みたいな感じがして、余計なエネルギーを使わせないこのまどろみに浸ってたいぜ、みたいな。ディズニーに行くよりビフテキを食べに行くより。

 

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 ディレクターは原付の後ろ、荷台に「積み荷」をしきりにやりたがる。旅の途中、各地の名産物的なモノ、米だのなまはげだのそば粉だの、そういうのを積みたがってる。ある種の「証」、長い道を旅してる、いろんなトコを通ってるって証明として。

 でもそれは裏を返せば、それぞれの場所の違いなんざ荷台に積むモノ程度の違いでしかないってことだ。米を積むかそば粉を積むかの違いしかこの国、この世界の「風景」にはないってことだ。死ぬほど目くそ鼻くその世界。死ぬほどに同じ世界。

 

 多分ディレクターもタレントもそれを分かってる、分かっててそういうことをやってたと思う。つまり旅なんざくだらねぇと。どこに行こうとどこにも行けやしねぇって、どう在ろうとしょぼい旅、旅にならない旅でしかない、旅なんかしたことにならない、旅なんかこの世界には存在しないってことを分かってて、「どうでしょう班」は旅をしてたと思う。

 

 でもその一方、彼らは感動もしてる。『どうでしょう』のレギュラー放送の最終回、「原付ベトナム横断」の旅で大泉さんやディレクターは号泣したりしてる。そんでそれを見て俺ら視聴者も泣いたりしてる。「感動の最終回」にふさわしい企画として原付の旅を選択して、そんで見事にみんな感動してる。

 

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 要するに『水曜どうでしょう』の旅は「しょぼい旅」と「グレートジャーニー」の間で揺れてる。「しょぼい旅」だったはずなのに、いつの間にかそこに「グレートジャーニー」が入り込んでる。ベタな感動、旅のカタルシスに寝首を掻かれたりしてる。エンディングテーマ『1/6夢旅人』なんてまさにそうで、あれは完全に「グレートジャーニー」を謳った曲で、要するに、本当は旅なんかできないはずなのに、どこに行こうと同じはずなのに、旅が旅になってしまってる、いつの間にか彼ら作り手も俺ら視聴者も陳腐に涙を流してる、旅を味わっちまってる、なんだよこれ? どうなってんだこれ? みたいな。蝶番みたいに、コインのようにくるくると回る。反転する。かったるさとスペクタクルが。

 

 そしてそれらふたつを合わせて、止揚して、メタに『水曜どうでしょう』は気だるくヒトを気持ち良くさせてる。つまりちんけさと壮大さの間で揺れた、揺らされた自分たちの感情と、それを一歩引いて、俯瞰したときの「なにやってんだこれ?」感。「なにをやってんだこいつら?」、「なにを見てんだ俺は?」、的なその徒労感。元の木阿弥的な。まるで何も起きなかったみたいに。自分が泣いたことも笑ったことも。何もかもなかったように。

 

 そういうことなんじゃねぇかな、とか思う。『水曜どうでしょう』を見てる俺たちは。

 

 

すべてとヤッた始皇帝

 中学のとき、フジムラくんって同級生がいて、そいつの書いたモノが印象的だった。

 

 国語の授業で、作文の宿題が出た。各々書いたモノを提出して、後日クラス全員分のそれがプリントに印刷されて配られた。その中で、フジムラくんのは『すべてとヤッた王さま』っていう短い小説だった。ショートショートだった。

 

 それは始皇帝の話だった。専制君主、始皇帝が権力を使ってセックスをしまくる話だった。世界中の美少女を召し上げてヤリまくる話だった。

 ヤッてヤッてヤリまくって、やがて美少女だけじゃ飽き足りなくなってブスともヤるようになった。世界中のブスとヤッて、男ともヤッて、犬や馬、麒麟、青龍、ユニコーン、石像、老婆、宦官、四肢欠損者、アダム、イヴ、――とかなんとか、この世のすべてのモノをヤッていった。セックスをコンプリートしていった。

 

 で、あるとき始皇帝は気づいた。「ベロニカ」とヤッてるときに気づいた。この「ベロニカ」だけじゃなく、《裏》のベロニカともヤラなきゃ本当の意味で「ベロニカ」とヤッたことにならないと。――その小説だと確か《裏》だか《逆》だかって用語だったけど、つまり要は「not」のことだった。「A」に対する「not A」、そいつともヤラないとセックスを網羅したことにならねぇわ、みたいな。セックスを満たしてない、セックスで満たしてない、みたいな。

 

 で、「not A」とヤるってのは具体的にどういうことなのか。――それは要はオナニーだった。「A」のことを考えてオナニーするのが「not A」とヤること、ってことだった。そういうわけで始皇帝はオナニーしまくった。今までヤッたヤツらのことを思って来る日も来る日もオナニーをし続けた。目の前にいない「B」を、「Z」を、「Φ」を、つまり「not B」を、「not Z」を、「not Φ」を犯していった。ひとり、自分で自分のちんこをしごくことで。

 

 で、「not 始皇帝」とヤッてる最中に始皇帝は死んだ。「腹上死」。ルビで「テクノブレイク」と書かれてた。

 

 腹上死もテクノブレイクもその作文を読んで初めて知った単語だった。フジムラくんは進んでた。モノ知りだった。

 

 フジムラくんと最後に会ったのは成人式のときだった。噂、又聞きだと大学を出て県庁に就職したらしい。フジムラくんは野球部だった。野球もうまかったし成績も良かった。

 

 卒業記念、か何かで配られた文集にもフジムラくんは小説みたいなのを書いてた。それも面白かったんだけど、そっちは内容を忘れてしまった。今でも実家に帰ると本棚とか押入れとかちょろっと探したりしてんだけど、見つからない。「取っておこう」と思って、どっかにしまったはずなんだけど……。

 

 

中野とラノベと無限ループ

 先週、用事で久々に都心に行った。新宿に行った。

 ついでに中野の駅前に寄った。大学のときにこの辺りに住んでた。

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 当時、中野は再開発がされてた。道や公園が整備されたり新しい建物ができたりしてた。

 

 中野セントラルパーク、ってトコの付近もそんな感じで、よく夜中、そこの辺りをぐるぐると散歩してた。同じトコを何度もぐるぐると、適当に音楽を聴きながらだらだら歩き続けてた。

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 要するに暇だった。バイトもしてねぇサークルも入ってねぇ、知り合いもいねぇカノジョもいねぇ、金もないからどっか他の場所にも行けねぇ、みたいな感じで、ただ時間だけがあって、結果として手近な公園の近くを、1周1キロぐらいか、真夜中の静かなそこを延々と馬鹿みたく回り続けてた。そういう19歳で、20歳で、21歳で22歳だった。

 

 大学も暇だった。僕がいたのは早稲田の文化構想学部っていう、まぁ文学部のパチモンみたいな学部で、基本だいたいの授業はユルくて、今はどうか知らんけどその頃は出席もそんな厳しくなくて、期末レポートを2000字かそこら書けばそれで単位がもらえて、だからまぁ全然忙しくなかった。7月とか1月、期末に大学の図書館に行くと他の学部のヒトがたくさんいてノートを広げてテスト勉強したりしてて、で、僕は適当にレポートのネタになる本を適当に1冊か2冊借りて、そのままちんたらとアパートに帰って、みたいな、まぁそんな感じだった。要するにうんこだった。ちんけな馬鹿学生だった。

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 要するに大学の4年間で何をしてたかっていうと散歩だった。同じ場所を徘徊老人のごとく回り続けてた。いや同じトコを歩いてるだけなら徘徊でさえないか? たまには足を延ばして違う道を、みたいなことも全然なかった。まったくフロンティアスピリッツがなかった。同じ風景を見続けてた。夜中の3時に歩き出して、気がつくと5時とかになってて、空の端に朝焼けが見え始めてて、それはまぁ少し綺麗かな、みたいな感じで、けどだからどうだってこともなくて、疲れたんでアパートに帰って、寝て、みたいなふうにして、それで気づくと4年が過ぎてた。大学を卒業してた。

 

 あとはラノベだった。ラノベを書いて新人賞に送ってた。そんで落ちまくってた。それを繰り返してた。100回、とは言わないけど、まぁ落ちまくってた。

 落ちるたびへこんではいたけど、でも、ある意味というか、もっとメタな感情としては落ちることに慣れ切って、どうでも良くなってた。惰性で送り続けてた。特に何がどう、何が変わるってわけでもなく、同じように書いて同じように送って同じように落ち続けてた。全部陳腐だった。一言一句ちんけな文章だった。

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 要するにループしてた。ラノベと真夜中の散歩が。それで全部だった。それだけが回ってた。惰性で、慣性でやってるってだけだった。止まるのがめんどいからとりあえず歩いとけ、みたいな。考えるのもめんどいからとりあえず考えたふりしとけ、みたいな。

 

 そういう毎日が、そういう自分がくそだな、みたいなことはまぁもちろん思ってはいて、つまりこんな無意味な散歩すんならTOEICとかなんとかの勉強したらいいんじゃねぇの、とか、早く新人賞獲ってさっさとデビューして印税欲しい、とかなんとか、要はこんな日々は惨めだ、こんな自分は認められねぇ、みたいに思ってはいたけど、でも多分、もっとメタな感情では、これでいい、このままだらだらいきたい、このままこの無意味さに浸ってたい、そういう感傷を転がしていたい、ずっとこうしてゼロを描く循環、無限ループの中で適当にたそがれたふりをしてられればいい、――みたいに思ってて、だからそれはそれでそれなりに幸せだった。甘ったれた、すこやかなモラトリアムだった。

 そんなことを思い出してた。

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 大学を出る1ヵ月前、地元の町役場から内定が来た。そういうわけで東京を、中野を離れることが決まった。そういうわけで中野セントラルパークを回り続ける、真夜中の散歩、その無限ループが終わった。

 大学を出る1ヵ月前、出版社から連絡が来た。応募したラノベ、とりあえず賞をやると。とりあえず本にすると。そういうわけで延々ラノベを書いて送り続ける、そんで落ち続ける、その無限ループが終わった。

 

 3月、引っ越しの準備をして、編集者と顔合わせ、打ち合わせをして、そんで、卒業式が終わって、3月30日、青森に帰った。ふたつのループが終わった。

 

 で、その年の秋、出したラノベは爆死して、それで終わった。そんで、それからしばらくして、役場を辞めた。つまりふたつとも終わった。無限ループを終わらせたそのふたつもまた終わっていった。ろくに始まらないまま。始めないまま終わらせてしまった。

 

 それからもう何年も経った。終わったその先で、まぁだらだら生きてた。というか生きてる。今も。

 特に何がある、何を始めたってわけでもなく、だからってあの頃の無限ループ、みたいな感じでもいまいちなくて、ある意味無限ループにすらなれなくて、そういう意味じゃあの頃よりもどうしようもない、無意味な時間で、でもまぁそんなヤツは多分どこにでもいて、別にこの自分だけじゃなくて、なら何を思おうと、何がどうであっても別に関係なくて、まぁどうでもいいわ、みたいな。何があっても別にあったことにならない、何を考えても別に考えたことにならない、自分以外にはどうでもいいことでしかなくて、なら別に、自分にとってもどうでもいいわ、みたいな。まぁそれはそれで一種の安らぎで、ならもう別に、ループしようがしまいが関係ねぇよ、言葉の違いでしかねぇよ、みたいな。

 

 まぁそんなもんだよな、みたいな。

 

 

未だに宿題やってない夢を見る

 月1ぐらいのペースで見てる気がする。しかもまぁ、よくできてるというか、ことごとく苦手だった理科とか数学の宿題をやってないって夢で、明日で夏休み終わるのに問題集全然やってねぇ、みたいな。

 

 そういう夢を見ると二重の意味でへこむ。つまり化学のテストで100点満点で7点しか獲れなかったこととか数学の授業でくそみたいな答えをして先生に怒られたこととかを思い出すってのと、そんでそれをいい歳して未だに引きずってんのかよ、みたいな。あとはあれだ、同じようなもんだけど、部活サボって先生にキレられるってビビってる夢とか。

 

 いや、というか多分、そういう夢を見ること自体はまだ許せる。問題は仕事で失敗したみたいな夢を全然見ないってことだ。学校を出てもう何年も経つのに、ニートとか引きこもってる時期も多いけど、まぁ一応はちょろっと働いてたりしてんのに、取引の契約で大失敗したとか流れや同調圧力で汚職じみたことやって捕まったとか、そういう社会人、オトナとしての悪夢、みたいな夢は全然見ないってことだ。それで中学とか高校の頃の悪夢ばっかり見ちゃって、お前いつまでガキのつもりだよ、どこで精神年齢止まってんだよ、みたいな感じで、だからテンションが下がる。へこむ。

 

 これって「あるある」なんすかね。それとも俺が大した仕事してないからってだけなのか? キャリアで財務省入ったり三菱商事とかマイクロソフトで働いてたら普通にそういう悪夢を見るもんなんすかね? そういうヒトは今さらガキの頃の宿題どうこうなんてちんけな夢なんか1ミリだって襲ってこない、みたいな感じなのか? どうなんすかね。ビジネスエリート100人、とかに訊いて回りたい気がする。

 

 芸人さんとかはよく「お笑いライブでネタ全然作ってないまま舞台に出る」って悪夢を見る、みたいな話をしてますよね。そういうのを聞くと素直に、あー「プロ」なんだなって感じがして、まぁ羨ましいとは言わんけど、でも俺みたいなのとは違うんだな、とか思ったりしなくもなかったりします。

 

この国じゃ天皇だけがまともにモノを考えてるたったひとりの「人間」だったんだぜ、みたいな話。

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 そういうことを言ってる本があって面白かった。大塚英志さんの『感情天皇論』って本。

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

  • 作者:大塚英志
  • 発売日: 2019/04/05
  • メディア: 新書
 

 先代、明仁天皇の生前退位をネタに、そんな感じの話をしてる。

 

www.youtube.com

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) - 宮内庁

 

 本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 

「おことば」の初めに、天皇がそう言う。それを見て、著者は言う。

 

(…)ぼくがこのくだりにこそ注目するのは、ここで何より彼が主張しているのは、これから「私の考え」を私は表明する、という彼の意思だからだ。つまり、私はこれから一人の個人として発言する、と言っているのだ。自分の考えを外に向かって発信するのは言うまでもない近代的個人の前提である。彼はそういう「個人」として国民に向けたビデオメッセージのカメラの前に立ったのだ。

 

 そんで、こう言う。

 

 しかし、国民の反応はどうであったか。

 結論から言えば、保守派も国民一般も、事態をあくまで明仁天皇の「私事」として捉えることで一致した。

(…)明仁天皇の意見の表明は多くの国民には「感情」の吐露ととられた。

 

 要するに天皇が「もうしんどいんでリタイアして休みたいっすわ」って言ってる、そう俺たち日本人は天皇の「おことば」を受け取って、そんで「じゃあかわいそうなんで休めや」って感じで生前退位を許した、みたいな流れだぜ、って感じの話なんだと。

 

 要するに天皇はかなりガチで自分のアタマで考えて「俺は天皇を辞めるべきだ」って言ったのに国民は単に「疲れてる天皇マジかわいそう」みたいなレベルで「辞めていいぜ」ってOKしちまった、「感情」だけで判断しちまった、アタマが足りねぇ、アタマがねぇ、天皇しかろくにモノを考えてねぇ、みたいな話なんだと。

 

(Symbol) Emperor thinks thinks thinks thinks…

 じゃあ天皇はどういう理由で天皇を辞めるべきだと思ったのか。なんで自分はもう天皇にふさわしくないと考えたのか。

 

既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。

 

「象徴の務め」、象徴天皇としての務めってのは何だ?

 

私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

 

 国民、お前らのために「祈る」こととお前らの思いに「寄り添う」ことが俺の、いや天皇ってもんの役目なんだぜと。

 

 著者はそれを「感情労働」と表現してる。マックの「スマイル0円」的な。そんで、「スマイル0円」がバイトのにーちゃんねーちゃんには結構、いやかなりしんどくて重労働、自分を切り売りしてる、自分の何かがすり減ってく気がするってのと同じように、天皇にとってもその「感情労働」はきつかった、ブラックバイトだったんだと言う。

 

――で、天皇としては「俺も歳を食ったしこの先この労働は無理だろ、だから辞めるべきだって俺は考えたんだけど、お前はどう思う?」、と。天皇はそう言ってたんだと、著者は論じてる。

 

 要するに天皇としては国民にも天皇の役割ってもんを考えて欲しかったんだと。別に同情してほしかったわけじゃない、「いや俺は天皇の役割は祈りとか寄り添いじゃないと思います」とか「いや天皇の役割はあんたの言う通りだと思うけどあんたはまだやれると思います」とか「俺的にはそもそも天皇制がちょっと要らないんじゃねぇかなと思います」とか、国民のひとりひとりが自分のアタマで考えた自分なりの意見を持って、そのうえで話し合おうぜと、ちゃんと天皇ってモノについてみんなで言い合おうぜと、天皇はそれを望んでたんだと。つまり天皇としては自分が天皇を辞めるのが目的じゃない、なんなら辞めなくたっていい、みんなで自分なりの意見をぶつけ合って、その結果として自分が天皇続行ってことになるならそれでもいい、そう天皇は思ってたんだと。

 

 なのに現実は、国民は誰も「天皇」ってモノについて考えなかった。天皇を、俺を「かわいそう」としか見なかった。そのレベルで処理しやがった。まともにモノを考えなかった。感情だけで生きてやがる。猿並みに。ニホンザル並みに。

 

 そういうわけで天皇は拍子抜け、(´・ω・`)、ガッカリだぜ、みたいな。猿しかいねぇこの国のたったひとりの「人間」、明仁。「人間」として話がしたかった、みんなと「対等」に話したかった天皇。その孤独、みたいな。届かなかった天皇の「思い」、言葉、みたいな。

 

Emotional‼

 読んでてめちゃくちゃエモい「見立て」だと思った。ロンサムジョージ、ひとりぼっちの天皇、みたいな見方はものすごいロマンチックで、劇的で、うわ泣けるって感じで、すげぇな、と思った。

 

 本の中ではもうちょいいろいろ説明がある。なんで俺たち日本人が天皇の「おことば」に感情的なレベルでしか反応できなかったのか、それは明仁天皇自身が自分の考える天皇としての役目、「国民の思いに寄り添う」って仕事をあまりにもちゃんとこなし過ぎて、その「感情労働」がプロフェッショナル過ぎて、国民が天皇と自分たちの繋がりを感情って次元で捉えることに慣れ切ってしまってたってこと、つまり言っちまえばそれが伏線になって、天皇がひとりの個人、理性を持ったひとりの「人間」として放った言葉、「意見」を「人間」として受け止められなかった、エモーションでしかキャッチできなかったんだ、みたいな、かなり逆説がかった説明がされてる。それは天皇のせいってわけじゃないけど、でも天皇の「スマイル0円」はプロ過ぎた、天皇はそれを天皇としての役目だと自分のアタマで考えて、決意して、何十年もガチでやり続けてきたけど、それが仇になったな、自分の首を絞めたな、国民を「人間」じゃなくしちまったな、みたいな。思ったよりも国民はヤワだったな、みたいな。意志がないぜ。魂がないぜ。的な。

 

 つまりそれは結局、俺たち国民は天皇をひとりの「人間」として見られなかった、自分でモノを考え自分なりの意見を持ってる、意見を言えるひとつの人格として扱えなかった、要は生前退位のご意向を天皇のただの泣き言ってことにしちまった、猿は人間を人間と思えない、自分たちと同じ猿としか思えない、人間たる天皇を猿に貶めちまった、みたいな。この不敬、このディスリスペクト、みたいな。

 

 生前退位の1代限りの特例法。その制定について著者は言う。

 

(…)何よりこの法律は、明仁天皇の提言がただ、「天皇、お疲れさまでした」という国民の「共感」、即ち「感情」水準で受け止められたことを法の名の許に公式なものとしてしまった。明仁天皇の「考え」を「法」を以て否定したのである。なんと心ない法であることか。

 こうして明仁天皇のパブリックの形成に関与する「個人」としての彼は国民の総意によって消去されたのである。彼が表出しようとした「個人」は「私人の感情」として葬られた、というより私たちが葬ったのである。

 

 だから、私たちは一人の天皇を象徴的に殺した、とさえ言える。殺した、という言い方は物騒だが、しかし一人の老人の生涯をかけて考えた、自らのあり方に対する「ことば」を正確に受け止めず、退かせるのは、ただ引導を渡したに等しい。

 

エモ過ぎるわ

 自分の言葉が、「思い」が届かなかった、孤独な天皇。その構図。――死ぬほどドラマチックで、要は著者がこの本で言ってるのは「俺らもっとアタマを使おうぜ、感情だけでいかないようにしようや」ってことで、なのにこの天皇観はちょっとエモ過ぎる。感情を揺さぶり過ぎる。泣け過ぎる。

 

 そういう意味じゃこの本は失敗してる。明仁天皇が「人間」としてアタマをしぼって天皇の役割を考えた結果「感情労働」がそれなんだってことに行き着いた、その逆説、そんでそのスマイル0円的「感情労働」の実行の結果国民にはアタマがなくなった、脊髄反射の感情しか持てなくなった、その逆説、そういうのと同じように、この本も、マジでいろいろ考えて書いた結果エモーショナルになり過ぎた、読者を感情の次元で揺さぶることにしかならなくなっちまった、みたいな。つまり明仁天皇と同じ失敗をしてる、天皇をなぞってる、やっちまった、みたいな。

 

 そうやって、幾重にも入り組んで「感情的」な本で、――いやもしかしたら別に入り組んでなんかなくて、つまり単純に、身もふたもなく、この本は明仁天皇を演じてて、ある意味明仁天皇そのもので、つまり一種のプレイ、天皇ごっこで、で、そんで、この本を読んで孤独な天皇に感情移入しちまった読者、天皇じゃない俺ら読者は、さてどうしたもんかね、みたいな。いや参ったね、みたいな。

 

 あるいはあれか、この国でたったひとりの「人間」、たったひとりのまともなアタマの、天皇を降りた「彼」、「彼」に極限まで感情移入して、し切って、「彼」になり切って、「彼」にあやかる、「彼」のように「人間」になる、みたいな、そういう作戦か? 「彼」と一体化することで俺たちもアタマを手に入れよう、「人間」になろう、的な、そういう裏技で俺たちも猿から脱却しようぜ、みたいな? 

 

「彼」が死ぬその日までに、俺たちは「人間」になれるかな? あのとき「人間」のあんたを殺してすいませんって、「人間」として謝れるかな? とかなんとか。

エモいはてなブログベスト3

3位 

cruel.hatenablog.com

 日本で一番有名な翻訳家、山形浩生さんの記事。その山形さんが亡くなった母親のことについて書いてる。母親のちょっと間抜けな言動、エピソードって感じで、でもそれが外国での盗聴がらみの話だっていうちぐはぐさがなんとなくイイ感じで、ユーモラスだけどしんみりする。

 

 どこにでもいそうな、あー自分の母親もこんなんだよな、みたいな感じで、けど確か山形さんの母親はテレビ局でばりばり働いてたヒトだったはずで、あと海外小説の翻訳とかもちょろっと暇つぶしにやれちゃうようなヒトで、そういうスペック高いヒトなのにこういうそのへんのオカンって感じの振舞いをしちゃってて、そんで、それをふと思い出して山形さんがこうして書いてるってのが、そういうの全部含めて、読んでてほろっとくる。

 

2位

rocketjuicetm.hatenadiary.jp

 大学の頃を思い出して書いた、って短文で、すごいグッとくる。分かる、とか言ったら失礼だけど、でも確かに「あの頃の自分」として思い出すのは、俺もこういう「何もしてない自分」の姿で、そのときの自分がそれを、そういう自分を幸せとも不幸とも思ってたこと、それを思い出して懐かしんでる今の自分の甘ったるい感傷とその惨めさ、みたいな、そういういろんな感情が混じって、そんで、けど、だから何が変わるってわけでもなくて、思おうが思うまいが「この」俺はここにいて、――みたいな、そういう無意味さ、ちんけさ、空虚さみたいなのを捉えてる文章だと思う。

 

1位

konyanyachimatsubokkuri.hatenablog.com

 THE PINBALLSってバンドのフロントマン、古川貴之さんの記事。この世で一番好きな詩だ。いや詩じゃないか? いや呼び名はなんだっていいわ

クレヨンしんちゃんを毎日観てるバカがオススメするクレしん映画ランキング ベスト5(第4位)

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バカ丸出しでクレヨンしんちゃんを毎日観てる。そんなアホがオススメのクレしん映画を紹介します。今回は第4位。

 

4位 アッパレ! 戦国大合戦(2002年)

 あらすじ

しんちゃんがある日突然、過去にタイムスリップ。あっという間にサムライたちの闘いや政略結婚に巻き込まれ、歴史を大きく変えていく。戦国時代でも大暴れ!

 

見どころ・感動ポイント

「主人公」としてのしんちゃんの行き場のない悲しみ。どうにもならねぇ「この」世界への無力感に流す涙。

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 しんのすけが戦国時代にタイムスリップする。そこで偶然、合戦中に殺されかかってた又兵衛ってサムライを助ける。

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 しんのすけは又兵衛に拾われ、面倒を見てもらう。又兵衛は強くて優しくて全体的にナイスガイ、立派な男で、ふたりは絆を強めていく。

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 又兵衛は幼なじみのお姫様と両想いで、けど身分違いってことで身を引いてる。気持ちを押し殺してる。

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 で、なんか敵国と本格的に合戦をして、そんで、又兵衛としんのすけたちが勝って、引き上げて、その途中、又兵衛は急に撃たれて死ぬ。

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 又兵衛とのお別れ。で、しんのすけは無事現代に帰って、おしまい。

しんちゃんの涙

又兵衛は言う。

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「しんのすけ、お前が何故オレのもとへやって来たか、今分かった。――オレは、お前と初めて会ったあのとき、撃たれて死ぬはずだったのだ。だが、お前はオレの命を救い、大切な国とヒトを守る働きをさせてくれた。お前は、その日々をオレにくれるためにやってきたのだ。――お前の役目も終わった。きっと元の時代へ帰れるだろう」

 

 要するにすげぇ感謝してますと。しんのすけに。ありがとう、みたいな。

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 しんのすけ号泣。しんのすけは形見として脇差を受け取る。

 

 元の時代に帰る直前、しんのすけは「儀式」をやる。又兵衛から教わった「誓いの作法」を。

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しんちゃんの涙?

 強くて優しくてけど不器用で、そんな「サムライ」と出会ってヒトとしての在り方を学んで、そんでそいつとの別れ、死別によって、しんのすけがひとつ成長する。――表面的にはそういう筋書きで、それはそうなんだけど、でも、違うっちゃ違う。

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「しんのすけ、お前が何故オレのもとへやって来たか、今分かった。――オレは、お前と初めて会ったあのとき、撃たれて死ぬはずだったのだ。だが、お前はオレの命を救い、大切な国とヒトを守る働きをさせてくれた。お前は、その日々をオレにくれるためにやってきたのだ。――お前の役目も終わった。きっと元の時代へ帰れるだろう」

 

 又兵衛は自分にとってのしんのすけの「意味」をほざく。つまり又兵衛は自分を中心にしんのすけって存在を考えてる。

 

 けど又兵衛は気づいてない。これが『クレヨンしんちゃん』って作品だってことを。この世界の中心は自分じゃなくて「しんちゃん」なんだってことを。

 

 しんのすけの涙の意味はそれだ。つまり「俺の映画、俺の成長物語のためにお前がこうやって死ぬハメになってすまんな」ってことだ。「俺の成長ってプロットを際立たすために最後こうやって、この世界の意思としてお前は撃ち殺されることになって、いやぁ、うはは」、そういうわけでしんのすけはぼろぼろと泣く。主人公である自分の都合で死ぬ「脇役」。そのやるせなさ。どうにもならなさ。

 

 いやもっと言えば、しんのすけは又兵衛のアホさ加減を憐れんでる。自分が脇役だと気づかずに自分を中心にしんのすけの「役目」とかをべらべらと語ってるその間抜けさを。しんのすけは思ってる、「利用されたのはお前なんだぜ」と。それに気づくだけのアタマすら与えられてない、哀れなピエロとしての又兵衛のそのザマにしんのすけは涙を流してる。フィクションであるこの世界。

 

 もっと言えば、さらに悲劇的なのは、笑えるのは、しんのすけは成長しないってことだ。この映画が終わればこの自分の「成長」はなかったことになる。自分は5歳のままで、この映画の物語はいつものテレビの自分、そして来年の、再来年の、10年後の、100年後の映画の「しんちゃん」には繋がらなくて、要は結局これは「成長したふり」にしかならないってことだ。つまり又兵衛、あんたは俺の成長の肥やしにさえならなくて、成長したふりの、その嘘のための踏み台でしかないんだぜ、みたいな、その切なさ、その空虚さ、みたいな。 

世界意思

「しんのすけの成長」。これがこの映画っていうひとつの世界の総意で、この世界の目的で、この世界はただそれに奉仕してる。

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 タイムスリップのきっかけはシロが庭先に急に穴を掘ったことで、その穴の中でしんのすけは戦国時代に飛ばされるわけだけど、そのときのシロにはほとんどシロとしての「意思」がない。しんのすけにも「いつもとキャラ違う」とか言われたりして、つまり要はシロはこの映画、この世界の意思に乗っ取られて穴を掘ってしんのすけを過去へと送り出してる。ある意味このシロの不自然さ、不気味さが一番分かりやすくこの映画のテーマを観客に説明してる。つまり「しんのすけの成長物語としての世界」という恣意的なその在り方を。制作側からの種明かし、みたいなもんだと思う。「これで分かれよ」と。「こういうことなんだぜ、所詮この世界はこうでしかないんだぜ」的な。

結論

 要するにしんのすけは気づいてる。自分が主人公だってことに。そしてそのどうしようもなさ、自分が世界の中心だってことが自分には動かしようがないことに。物語の、世界の操り人形として踊り続けるしかない主人公の無力さに。だからしんのすけはぼろ泣きした。

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 この世界の「意味」に気づけない又兵衛を憐れむ一方、多分しんのすけは思ってる。気づいてようが同じだと。脇役だろうが主人公だろうが、この作り話をどうすることもできないと。涙の意味も書き換えられちまうんだと。

 

 なら実際、どっちがましなんだよと。アホなあいつと半端に賢い自分。しんのすけは多分そう思ってる。アタマがあってもなくても、死のうが生きようが、結局それがなんだってんだ? みたいな。同じじゃねぇか、俺たち、何を思っても、とかなんとか。

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 そういうのが描かれてる、要するにこの『アッパレ! 戦国大合戦』はかなりド直球のメタフィクションってやつで、こんなモノをやれる『クレヨンしんちゃん』ってコンテンツはまぁ懐が広いなぁって感じで、そんで、ガチで泣ける。作り話の中のヤツらの悲哀、実存みたいなモノが伝わってきて、そんで、それが、作り話じゃない「この」世界の俺ら視聴者の在り方みたいなのとどっかで通底してて、いやぁ作り話だろうがそうでなかろうが、どんな世界でも、なかなか思うようにはいきませんなぁ、生きられませんなぁ、とかなんとか。

P.S.


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 7月に出るクレヨンしんちゃんのゲーム。『ぼくのなつやすみ』の監督が作ってるらしくて、ならあのバグ、「8月32日」的な、あのメタフィクション的な演出があったりするのか? みたいな変な期待をしてる。