何故か知らんけど水曜どうでしょうの再放送がやってるとものすごい幸せな気分になる

 いや単純に自分が『水曜どうでしょう』のファンだからってだけかもしれんけど。というかどんだけ幸せのハードル低いんだよ、どんだけ日々の一挙手一投足がちんけなんだよって気もするけど。

 

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『どうでしょう』の中でも「原付シリーズ」が特に好きだ。原付で東京から北海道に帰ったり京都から鹿児島まで行ったりって企画で、大泉洋さんと鈴井貴之さんが延々とスーパーカブで走ってる。それを車に乗ったディレクターが後ろからカメラで延々映してる。

 

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 まぁ「原付シリーズ」以外の企画でも、どっか旅に出る企画だとだいたいは車の前方をずっと映しっぱなしなんだけど、それでも車内にタレント、大泉さんと鈴井さんがいればたまにはそのふたりにカメラを向けたりして、そんな感じで一応は画ヅラの「動き」があって、でも「原付シリーズ」ではふたりは車の外、車の前方に居座り続けて走り続けてるからカメラも固定で、――いやつまり、要は原付シリーズは画面に変わり映えがない、同じ光景しかないってのが、個人的にはすごくイイと思ってる、いや俺だけじゃなく多分大抵の視聴者はそう思ってる、ってことだ。

 

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「原付シリーズ」を見てて思うのは、日本全国どこに行っても同じだってことだ。同じような風景しかない、山があったり川や海があったり、でもそんなもんでしかないってことだ。基本的に大通り、国道とかを走ってるからってのもあるんだろうけど、でもどこを走ってても、青森だろうが鹿児島だろうが関東関西のどっかだろうが、同じ絵ヅラでしかない、均質な、ちんけな、くたびれた、色あせた、しょぼくれたもんでしかない、どこに行こうがどこにも行ったことにならない、俺たち「ここ」から出られないぜ、みたいなだるい雰囲気がしてて、で、それが妙に安らぐってことだ。そういう意味じゃ「原付シリーズ」の再放送を見てて幸せってのはかなり後ろ向きの幸福であって、でもまぁ悪くないぜ、むしろそういう気だるい幸せの方が疲れなくていいわ、みたいな感じがして、余計なエネルギーを使わせないこのまどろみに浸ってたいぜ、みたいな。ディズニーに行くよりビフテキを食べに行くより。

 

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 ディレクターは原付の後ろ、荷台に「積み荷」をしきりにやりたがる。旅の途中、各地の名産物的なモノ、米だのなまはげだのそば粉だの、そういうのを積みたがってる。ある種の「証」、長い道を旅してる、いろんなトコを通ってるって証明として。

 でもそれは裏を返せば、それぞれの場所の違いなんざ荷台に積むモノ程度の違いでしかないってことだ。米を積むかそば粉を積むかの違いしかこの国、この世界の「風景」にはないってことだ。死ぬほど目くそ鼻くその世界。死ぬほどに同じ世界。

 

 多分ディレクターもタレントもそれを分かってる、分かっててそういうことをやってたと思う。つまり旅なんざくだらねぇと。どこに行こうとどこにも行けやしねぇって、どう在ろうとしょぼい旅、旅にならない旅でしかない、旅なんかしたことにならない、旅なんかこの世界には存在しないってことを分かってて、「どうでしょう班」は旅をしてたと思う。

 

 でもその一方、彼らは感動もしてる。『どうでしょう』のレギュラー放送の最終回、「原付ベトナム横断」の旅で大泉さんやディレクターは号泣したりしてる。そんでそれを見て俺ら視聴者も泣いたりしてる。「感動の最終回」にふさわしい企画として原付の旅を選択して、そんで見事にみんな感動してる。

 

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 要するに『水曜どうでしょう』の旅は「しょぼい旅」と「グレートジャーニー」の間で揺れてる。「しょぼい旅」だったはずなのに、いつの間にかそこに「グレートジャーニー」が入り込んでる。ベタな感動、旅のカタルシスに寝首を掻かれたりしてる。エンディングテーマ『1/6夢旅人』なんてまさにそうで、あれは完全に「グレートジャーニー」を謳った曲で、要するに、本当は旅なんかできないはずなのに、どこに行こうと同じはずなのに、旅が旅になってしまってる、いつの間にか彼ら作り手も俺ら視聴者も陳腐に涙を流してる、旅を味わっちまってる、なんだよこれ? どうなってんだこれ? みたいな。蝶番みたいに、コインのようにくるくると回る。反転する。かったるさとスペクタクルが。

 

 そしてそれらふたつを合わせて、止揚して、メタに『水曜どうでしょう』は気だるくヒトを気持ち良くさせてる。つまりちんけさと壮大さの間で揺れた、揺らされた自分たちの感情と、それを一歩引いて、俯瞰したときの「なにやってんだこれ?」感。「なにをやってんだこいつら?」、「なにを見てんだ俺は?」、的なその徒労感。元の木阿弥的な。まるで何も起きなかったみたいに。自分が泣いたことも笑ったことも。何もかもなかったように。

 

 そういうことなんじゃねぇかな、とか思う。『水曜どうでしょう』を見てる俺たちは。